保坂和志「小説的思考塾 vol.5」の配信を観る。
死の段階、すなわち呼吸が止まる、納棺する、棺を閉じる、火葬、骨を拾う、骨を持って帰る、お墓に入れる…という段階があって、生きている者は、どこで本当に死んだ人や死んだ動物と別れるのか、ある人にとっては棺を閉じるとき、あるいは骨を拾うとき、との話を聞いていて、そういえば、亡父の骨は一年近く、自分の住まいの棚の上に置いてあったなと、そのことを思い出した。
とはいえ父の骨壺があった一年間「父と過ごしていた」という風な実感は僕にはないのだが、しかし三重県での葬式を終えて、骨壺の入った鞄を手に下げて新幹線に乗り、東京へ着いて、自宅に帰ってきて、とりあえずスペースをつくった棚の上にその骨壺を設置したとき、その日は一日かけて父親と一緒に電車で移動したという感じを持ったし、帰宅したとき、はじめて父が東京の自分の家にやって来た、という感覚をつよく持った。その感じは今でもよくおぼえている。一年後に三重県の墓におさめるためふたたび新幹線で移動したときもそうだが、その場にあるだけだと、ただの骨というか置物でしかないのだけど、移動をともなうと、かつてのその人の「気配」というか「存在感」が、いきなり出てくるようなのだ。