昨日、日比谷から帰宅後にDVDでエドワード・ヤンヤンヤン 夏の想い出」(2000年)を観た。

ある後ろめたさ、許してほしい過去、目を背けていたい記憶、あるいはある気掛かり、不安、安心を許してくれない得体の知れぬ何か。誰もがそれを心の内に抱えている。そんなの当たり前だ。でも、そんなわかりきっていることのために、人々は毎日毎日、悩んだり苦しんだりする。

この世界は、目に見えることだけが全てではない、明日のことはわからないし、他人の心の内側もわからない。その見えなさを、誰もが感じている。だからこの世界に生きていくのは、常に不安で恐ろしいことだし、でも目の前のことがこの世界の全てではないがゆえに、まだ見えぬ何かへ、何かしらの期待をかけられる余地もあるのかもしれない。

だから、眠っている人に話しかけても無駄だと言い切るのは難しい。私が話しかけなかったことを、眠っている人は眠りながら悟るのかもしれない。眠っている人は、私さえ知らない私の過ちを知っているのかもしれない。眠っている人はそれを常に私に意識させ、私をその場へ引き留める。

それに何よりも私は、眠っている人に毎日語りかけることができるだけの言葉を、自身のうちに持っていない。愛情や思いがあっても、それをきちんと示すことが出来るだけの多様な言葉は出てこない。日々の新聞記事の読み上げを、眠っている人が望んでいるだなんて信じてない。だから私は眠る人の前で、自分のふがいなさをかみしめるしかない。

かつての過去をもう一度やり直せるチャンスが、ある後ろめたさを払拭できる機会が、もう何十年の時を経たうえで与えられることもあるかもしれない。でもそれは決して、かつての出来事のつづきではない。ふたりの過去はすでに閉じていて、お互いが共有していると思っているエピソードはそれぞれ別個なまま、それをもはや継続できる余地などない。時を遡ることは出来ず、今の私と貴方が、互いの今を、互いに手探りで確かめ合う以上のことはできない。それはただ砂を噛むような後味を残すだけの、空しい結果しか得られない。

私は自ら能動的に事を起こしたことは一度もないし、進んで他人を傷つける意志など一度も持ってない。それなのにどうして、私を起点に人は傷つき、苛立ち、悲しむのだろうか。なぜ夢は見たままの姿で展開しないのだろう。なぜ私は許されることがないのだろう。彼女は何もかも忘れたかのように、笑顔で彼女を見守るおばあさんの膝元に抱きついて、ただ眠る。

私は私の後ろ姿を見ることが無い。私の後ろ姿を見ることができるのは、私以外の誰かだ。人は誰もが自分の、あるいは他人の半分しかわからないのだとしたら、私たちが互いをわかると思うとき、いったい何をわかっているのだろう。

眠っている人に話しかけても無駄だと言い切ったヤンヤンだが、でもヤンヤンは、眠り続けるお婆さんに、話をしたくなかったわけではなかった。お婆さんが眠ってしまい、そしてこの世界からいなくなってしまったとき、お婆さんはすでに残された我々が、彼女がどこへ行くのかを知っていたから、何も話さずに行ってしまったのだと思った。そうヤンヤンは、お婆さんの遺影に語りかける。でも僕らはそれを知らない。だから話しかければ良かった、そしていつかそのことをわかり、そのときのお婆さんのことをわかりたいとヤンヤンは言った。