ギターソロ

最近の若い人は音楽を聴いていて曲がギターソロになるとその部分をスキップするとか、そんな話題を見かけた。最近の若い人は…系の話は、すべてほぼ百パーセント眉唾だと思うが、ギターソロが嫌いな人なら今も昔も一定数いるだろうと思う。あの自己顕示欲の解放みたいな無駄な時間を不要と感じる人も、それはいるだろうと。

もともとロック音楽にはじめからギターソロは含まれていた…と言ってみて僕が思い浮かべるのはチャック・ベリーとか、あとB.B.キングとかだ。B.B.キングはブルースだが、あの演奏スタイルこそ、ロックを志向する当時の若者に決定的な影響を与えた・・と思っている(あまり根拠なし)。

たとえばエリック・クラプトンというギタリストについて考えたとき、あの存在感の根拠というか下地の部分には、歌がメインなのかギターがメインなのか不分明な、ブルース的なパフォーマンスのB.B.キング的なものが流れているような気がする。

少なくとも60年代イギリスにおけるロックの白人ボーカルはまるで黒人ソウル歌手のように歌ったし、ロックの白人ギタリストはまるで黒人ブルース歌手のようにギターを弾いた。つまり元々、すべてが何々風・・・の音楽だった。

ボーカルが歌い終わると、ギタリストがソロを演奏するのは、彼らの役割の自己紹介でもあり、各人の同一曲に対する解釈の違いを展開することもであり、その曲がバンドの関係構成の内訳として見えてくることの面白味でもあっただろう。その一つの完成形がストーンズミック・ジャガーキース・リチャーズであるとも言えるだろう。

じっさいに、ある曲を聴いてみるとき、曲の主題をはじめとする主要素の展開を担うのはボーカルだろうが、ギターとりわけソロの部分は、その楽曲の別の側面を引き出すというか、ボーカルの仕事をある視点から批評的に解釈しているかのような印象をもたらすように思う。これはギターソロだけに感じさせられる特殊なものだ。たとえばサックスソロとかベースソロとかドラムソロになると、これはプレイヤーの存在が主張されてる感が強いように思うのだが、ギターソロはそれらとは違う。長い年月を経てギターソロだけがそのような位置づけを勝ち取ってしまったのだろう。

などと考えてると、やはりロックは人(役割)の音楽で、ちょっと演劇に似た形式なのだろうなと思う。R&Bなどの方がよほど芝居では?とも言えるけど、R&B系の歌手が演じるのは、あれはむしろ祈祷師とかの役割であって、ロックの演劇は複数人の関係性が織りなす芝居であるから目的が違う。孤高のロック・カリスマみたいなイメージもあるので、それは相互に入れ子状だと思うが。

そして、そんな演劇の要素をひたすら振り払っていけば、テクノとかのダンス・ミュージックになるだろう。あるいはジャズには、はじめから演劇的な要素はないと思う。ジャズでどれほど延々とソロが繰り広げられても、ロックバンドが演奏するものとは違って聴こえる。逆に、演劇的な要素がかすかにでも感じられたら、如何なるスタイルであってもそれはジャンルとしてのジャズに聴こえなくなるように思う(あくまでも個人の感想です)。