身振り

鯵を捌いているとき、うつむいてまな板の上で包丁をあつかっている、その行為に集中している自分がいる。それ以外のことが完全に頭のなかから消え去っている。まるで子供の頃みたいな集中力でことにあたっているのが、妙に滑稽な気がする。最近の自分の人生においてここまで没入状態になるのは、今の時間が唯一といって良い。でも、だからと言ってそんな時間が良いものだとはとくに思わない。こういうのはむしろ、上手く行ってないときにそうなりやすいのだ。その上手く行かなさを、じっと凝視しているような感じに近い。何事につけても、上手く行ってるときは大抵集中なんかしてない。

ある作品がすばらしいと思うなら、その形式と様式においてあらわされる意味内容に対してそう思っているのと同時に、その形式と様式によって得体の知れぬ賭けを試しているらしき得体の知れぬ存在感、その気配が感じさせる身振りを、良いと思っている。結局意味内容は、身振りと切り離せない。むしろ身振りの影響で意味内容が捻じれて壊れてしまっていたとしても、その方がかえって好ましいほどだ。だから他人に「あの作品のどこが良いのか?」と問われても説明が難しいのは、それがそれだけでは何の価値にも結び付かぬ身振りでしかないからだ。「**に似ている」と、その身振りを説明できるかもしれないが、それも誤解を呼び込む方が多いのかもしれない。似ていることは軽視すべきではないが、大事なのはあくまでもその身振りの描く運動線を延長した先にあるもので、似ているものとそれは静的には似ているかもしれないが、動的過程とした場合必ずしも同じ軌跡を描くわけではない。意味内容もまた静的な情報でしかないが、身振りは過去から未知への線的動線としてあらわれる。受け手は、形式と様式が実現するそのムーブマンに反応している。作品の質が向上するとは、その身振りがさらに洗練されるということでもあるが、その身振りの先に具現化されるはずのある場所、それを適切に受け止めることのできる何かの到来が期待されるということでもある。その期待を強く喚起させるような身振りというものがある。では何を根拠にして、その期待が喚起されるのか、それは勘であり賭けだが、勘でも賭けでも、完全な無根拠によってではなくかならず過去が参照されるものだ。あやふやであるがゆえに信じることが可能な疑いようのなさがある。その可能性を証明するのが目のまえのこの身振りだ。それは時間の壁によって隔てられていたもの同士を響かせ合うような、説明のつかない力の流れのようなものか。