切手の小説

「流れよわが涙…」にも出てきたし、あと先月読んだピンチョン「競売ナンバー49の叫び」にも出てきたけれども、"切手"というアイテムに、これらアメリカの小説は、何を込めようとしているのか。それは単に謎の表象であり、読者を結末まで引っ張るためのわかりやすいフラグであり、揺るがないもの、動かぬ価値の象徴として、小説内で便利に扱われるだけのものなのだろうか。

"切手"よりも、"切手収集"という趣味が何をあらわしているのかを、考えた方が良いのか。切手を取り巻く様々な人間の思惑や動向、金の動き、移動や貯蔵の歴史、その時間の堆積、時間が押し流していくものすべてから、その切手だけが別扱いとされる。

「流れよわが涙…」で最後に残るものは、切手ではなくて青磁の花瓶だった。あの、フェリックスがアリスを欺いて渡していたあの切手は、その後「靄の深い切手収集家の世界に姿を消して、二度と世に出ることはなかった」とされている。

「競売ナンバー49…」では、エディパの最後を左右する最終アイテムとして、切手は登場しようとする直前で、小説自体が終わった。"切手"を巡って小説が動いているとき、ある時代背景がよりよく浮かび上がってくるような効能が、やはりあるのだろうか。

そもそも「競売ナンバー49…」は「郵便」をめぐって運動する小説だとも言える。そこにある混沌とした謎…というよりもおびただしく積み重なった玉石混合の情報群…としか言いようのない出来事が連続するばかりで、最後まで何の解決も与えてくれないけれども、人の思惑や仕掛けや希望や恨みなどの歴史の起源に、太古からあっただろう通信・情報を司る制度があり、それをめぐる政治や闘争の痕跡があり、それは今もなお続いているのかもしれないというぼんやりとした予感が与えられる。その予感にはっきりとした輪郭を与えてくれるものの登場を待ちわびたい、"切手"はその期待を担っている。

日本の小説で、切手収集の出てくる話があっただろうか。…あった気もするのだが。

("収集"で何となく、北杜夫が「幽霊」に書いた昆虫標本を思い浮かべてしまった。これはアイテムとしても違うし、小説の取り扱ってるモチーフとして、小説的なはたらきとしても、かなり違う。)

(佐藤亜紀「黄金列車」が舞台としたのは戦時下のヨーロッパ、あの小説でも収集切手のファイルは重要なアイテムだった。)

たとえば先日読んだ「皆のあらばしり」での登場人物--その背後のある種の好事家、歴史研究科、学問の徒ら--の、古文書に対する欲望と、西欧の小説に出てくる切手を巡る欲望には、何かが重なり合うところもあるだろうか。あるとしたらそれらは、目が見るもの(考えの先)を、今ではなく過去へと正確にピントを合わせてくれるための希少なアイテム、ということになるだろうか。