Amazon Primeスティーヴン・スピルバーグ「フェイブルマンズ」(2022年)を観る。スピルバーグ作品を観るのは「リンカーン」(2012年)以来だ。暗い室内に窓から入り込んでくる青白い光を、久々にみた。

「衝突」は一度だけの不可逆的な事件で、映画とは一度きりの出来事をフィルムに残すこと、あるいは、図らずも残ってしまうこと。その偶然を、くりかえし見返すことでもある。家族キャンプの撮影で偶然映り込んでいた映像を見て、主人公は母親と父の友人との不倫に気付いてしまう。彼は編集機でそのフィルムを何度も見返す。スロー再生して、コマ送りで、二人の登場人物の身体の様子、手の動き、表情、それらをつぶさに見て、彼らの関係が明確に示される瞬間をくりかえし見る。

カメラが、ときには思いもよらぬ何かを映し込んでしまうことがある。それに怯え恐れるかのように、主人公はそれまで夢中だった映画撮影をやめてしまい、機材一式をベッドの下に封印する。彼がふたたび撮影に取り掛かるのは高校の休日イベントに生徒らが海辺で思い思いに過ごす様子を撮影する機会においてだ。

主人公は的確な撮影技術と編集によってその一日を映画としてまとめ上げたので、パーティー会場の上映で観客らは大いに湧く。とりわけそのフィルム内で、主人公を苛めて殴打したこともある金髪の男子生徒が、まるで英雄のように捉えられていて、突然ヒーロー扱いされた彼は上映後に周囲から喝采を受けるも、その表情は複雑だ。

映画の示すものは、作り手によって如何様にもその世界を作り替えることができ、作り手自身の思いさえ事後的に任意の方向へ作りかえることが可能だ。ショットは現実から切り取られたものでありながら、誰かの願望や期待のようにも絶望のようにも作用することだろう、これこそが映画のパワーであり可能性だ。久々に「作品」を作り上げた彼は、自分のこれまでの経験と技術をもって、そのこと(映画の力、自らの技術力と才能)を再確認したかのようだ。それがあまりにも巧みで充実した完成度を保っていたからこそ、映画内で前触れもなく唐突に「主演」の立場に立たされた苛めっ子の金髪男子は、彼に対して復讐されたかのように感じ、説明しがたい不思議な屈辱感を味わうのだろう。

(それは本来の自分がもつコンプレックスとか、本来認めさせたい自負や自尊心とかがまるで無視されたことの悔しさ、にも関わらず意中の彼女とかをゲット出来てしまえそうな、まるで実感のない棚からぼたもちのような幸運への戸惑いが、複雑に混ざり合ったものだろう…とはいえこの場面は、なかなか微妙というか不思議な場面だ。)

(物語から浮き上がったような、何とも奇妙に感じられるシーンは本作内に幾つかあって、その微妙さゆえに印象に残るものばかりだ。たとえば母親が子供たちと竜巻を見に車で出掛けて、強風にあおられたショッピングカートが列をなして路面を走っていくのを見るシーン。異様に長く伸ばした爪でピアノを弾く母親の爪が鍵盤にカチカチと当たるシーン。あるいは亡くなった祖母の兄がとつぜん訪ねてきて一泊し、主人公とひとしきり話をして、彼に自らの進むべき道を勧めるエピソードなど…。いずれも奇妙ゆえに、やけに具体的で取り換えの効かないリアリティをたたえている感じがする。)

人が自分の生きていくことに、内実やよろこびや完成度を求めるのは当然で、それは年齢や立場に関係なく、たとえば母親だって同じで、誰もが自らの思いにしたがって生きていきたいし、彼女も奔放な自身の欲望に忠実でありたい人なのだけど、それはそれで、映画は映画として、人とは別に、独自の質やよろこびや完成度をもつ。だから(キャストであれスタッフであれ)映画に関わるとは、そちらの問題に自分の人生を預けてしまうことだで、だから終盤における(デビッド・リンチ演じる)ジョン・フォードの登場は、この映画のまさに「答え」であり、これこそが主人公の生きる方向を決定づけ、彼の目指す先を光を照らすものとなるだろう。

そもそもフォードは主人公に、まるで叱りつけるかのように、フレーム内における地平線位置について示したに過ぎないのだが、しかし何にもましてそれこそが決定的な言葉で、それは「教え」でもなければ「方法」でもない。もっと単純に、映画と呼ばれる「その世界」そのものが示されている。その言葉の向こう側に、無限大の映画的世界の広がりが指し示されるのだ。そして主人公はもはや、その方向へひたすら走り去っていくだけだろう。もう二度と、こちら側には戻ってこないだろう。