たぶん悪魔が

新宿シネマカリテでロベール・ブレッソンたぶん悪魔が」(1977年)を観る。公害・環境問題、エネルギー問題、核開発問題、動物保護問題…と、まさに七十年代的な時事問題という感じの場面。もちろんこれらの問題は今でも未解決ではあるけれど、何というか、こうやって並べて観させられると、七十年代だな・・との感想が先に出る。誰もが公害・環境問題について、地球に優しい生き方について、考えていた(考えざるを得なかった)時代、核時代の恐怖に心を暗く重くせざるをえなかった時代。いかにも七十年代なのに完全に今現在の脅威でもあるところが、胸の底に暗く溜まって憂鬱になる。ふだんは忘れていても、あるときふと思い出して、心が暗くなり、やがてまた忘れる、そのうち、世界の蓋がじょじょに閉まっていき、今いる場所もだんだんたそがれて暗くなっていく予感。

教会に集まった主人公たちと他の若者集団らで意見がたたかわされ、結果ものわかれに終わるシーンでは、始終パイプオルガンの調律作業が行われていて、すさまじい大音量が彼らの対話をたびたび分断する。パイプオルガンの調律ってほんとうにこんな感じなのか?だとしても、なぜ今やるのか?・・すごく即物的な音的暴力という感じ。そういえば最近観た映画(「ビートルズ…」「メモリア」)も音が重要な役割を担う、というか映画における音の役割について考えさせるような作品だ。

それにしても、主人公を演じたアントワーヌ・モニエという人物の、何という絵に描いたかのような美少年であることか。いや彼だけでなくどの若者もたいへん美しく、それがまるで彼らの住む部屋のドアや階段の手すりやエンジン音を猛らせて走る白いオープンカーや、黒い夜の川面に光が反射して揺れる様子が美しいのと同等にうつくしい。男女の区別がつかないくらいに、彼らの裸身は肌理が細かくて光沢を放つように均整がとれているし、髪、瞳、睫毛、口元、それらのすべてに破綻がない。その身体の内側にコミットできる政治信条も信仰も連帯もいっさい無くて、彼らは各々の所用に夢中になってるだけで、小手先のやり方でセコい盗難を試して、麻薬を得て、警察や精神科医からたしなめられ、それでも彼らの表情には変化がない。その表情は、もともと最初から変化の可能性をもつ何かではないかのようだ。そしてあたかも虫けらが虫けらを殺すかのように、夜の墓地であっけない最期が描かれて終わる。