仕事

「なみのこえ 気仙沼」「なみのこえ 新地町」を観ていて、仕事というのは、根本で人間を支えているものなのだなと、それもある種の限界というか、これもきっと、この先どこまでいっても、我々はずっとこうなんだなと、仕事は我々に与えられた(さほど豊富ではない選択肢のなかにあるもっとも選び取りやすい)手段の一つで、それは我々を束縛し、苦痛をもたらしもするけど、労働の要請がもたらすよろこびこそが、人間の生きていく上での活力にもなる、そのことは、いまさらながら(少し苦い味わいとして)思った。

この映画に登場する被災地の人々は、とにかく誰もが、仕事の話を口にする。震災ということ以上に、人間の仕事というものもテーマの映画であるとさえ、言えるかもしれない。

労働が、不当な関係を強いられたまま搾取される構造の下でしか可能でないなら、そこからの解放を希求しつつ生きていくのは、もちろん正当な認識ではあるのだが、しかしそれと同時に(そのことと矛盾なく並立して)、労働とはこの私を表現するものでもあり、私の生活である。私の生活を支えるための行為というよりも、労働それ自体が生活である。労働の対価は金銭だけでなく、社会の中における私の関係性や必要性を不断に指し示し更新するものだ。というよりも労働こそが私と社会との関係そのものなのだ。要請(必要とされること)がそのまま報酬であるかのように、あなたの労働力が必要だとのメッセージに、人はよろこびを感じ、それを糧とする。

津波にすべてを流されてしまうということ、近しい人を喪うということ、残された人々にとってそれらを克服していく、その手段が、仕事なのだ。仕事というか、生活を再活動させるということでしか、喪われたものを悼み、新たな場所へ進む方法はないかのようだ。そのようにしか、生きていく上での手応えや安心というのは手に入れられない、そのような考えは、よく理解できる。

ちなみに「なみのこえ 気仙沼」でも「なみのこえ 新地町」でも、それぞれ一回ずつ、撮影中に地震が起こる。どちらも幸い、大した大きさではなく治まるのだが、映画の中で起こる地震で、これほど強く慄いた経験はあまりない。とくに「…気仙沼」の母娘の親子で対話中にふいに起こる地震の、あの建物が立てる音の恐怖には、ものすごいものがある。にもかかわらず、その親子はその程度の揺れにはすでに慣れてしまっている。やや揺れが治まったのをみて、続けてもいいですか?とスタッフに確認してさっきの話の続きに戻る。(撮影スタッフの方がビビってるのが、気配で伝わってくる。)