なみのこえ

Bunkamura ル・シネマで酒井耕、濱口竜介の共同監督による「なみのこえ 気仙沼」「なみのこえ 新地町」を観た。数年前キネカ大森で、東北記録映画3部作のひとつ「なみのおと」を観たときと同様、今回も妻に付き合っての鑑賞だが、しかし観て良かった。やたらと面白いものを観たときの高揚感があった。「なみのおと」がどんなディテールの作品だったのかをすでにほぼ忘れてしまったのだが、おそらく今日観た二本の作品ほどには楽しまなかったのではないかと思う。それは作品の質が違うというよりも、観た自分の受容の仕方が違ったのだと思う。

会社の同僚、友人同士、夫婦、親子など、被災地のさまざまな二人が、向かい合って震災の経験を語り合う、あるいは一人で、対面のインタビュアー(監督)に対して語る。カメラは向かい合う二人の様子を外側から撮る、あるいは真正面のカメラに視線向けて話す各人の顔をとらえたショットが、交互に切り返される。ほぼそれだけの映画なのだが、しかし人の言葉、表情、応答、相槌、沈黙、それら人が言葉を話すことすべてというのは、それがインタビュ―であれお芝居で役者が演じているものであれ、どんなシチュエーションの、どんな意図の、どんな目的であれ、基本的にはこの上映時間計四時間もの間ここに映されていたもののようなことだろう…と、あえて感想のようなものとしてまとめて言うならそうなる。この映画には、人が言葉を発するという事象についてならば、おおむね映っていると考えたくなる。というよりも、人が話をするというとき、これ以上のことはほぼ稀なのだろうか、という複雑な思いと合わさってもいる。

あるいは背景。対話をする部屋の内部の様子や、窓の外に広がる景色や、自然光や、部屋の照明、空、海、すべてが押し流されたあとのまっ平な地平が出てくる。それらは言葉を発する人の表情や言葉の背景ではないのだが、それになろうとする、あるいはそこから離れようとする、そんなどっちつかずの何かとして、画面の様々なところで小さく運動している。

生死をわけた間一髪の体験や、現実とは思えない地獄のような景色や、うしなわれた人々の話がいくつも語られ、悲しみや憤り、あるいは抑制、諦念、落ち着き、共感と笑い、幸福の実感みたいなものが、それぞれの仕草や表情によってあらわされる、このように言葉を選び、言葉を組み上げ、このような声で話をするのが、人というものか…と思う。それは強い共感を呼び起こし、映画を観る者の感情をたかぶらせる。しかし同時に、スクリーンに映っている人々と自分とが、やはり同じような言語操作技術をもち、それによる表現力をもち、身振り手振りと表情と仕草を使ってそれを話す、あるいはそれを聞き、表情や声で応答し、感情を伝えようとする、相手への伝達と理解、何かが通じ合い、感じ合うということ、その手段はきっと、この先どこまでいっても、我々はずっとこうなんだな、と思う。

前述したように、それがインタビューであろうが映画撮影のための演技であろうが、ほとんど関係ない、その意味での虚構と現実あるいは演技と非演技であることの相違は見いだせない。そのことを強く感じさせられる。それはほかならぬこのスタッフによる作品だから余計にその要素が引き立つのだとも言えるが、それよりも人間が本来、もともとそのようにしか言葉を使えないのだということが、静かに指し示されているという感じを受ける。

にもかかわらず、なぜこの作品を観ているのは面白いのか。それは何らかの限界とか枠とかの限定性を感じさせるようなものでは決してないからだ。言葉を使って話をした場合の諸要素の結果を機械的にパターン化すれば、それはそれなりに単純な結果になるのかもしれないが、しかしここに現れているものは、決してそういうことではない。

相違とか差異とか呼ばれるものとは、いったい何だろうかと思う。それはきっと、ものすごく些細で小さなものだ。そしてそれはまず同一性とか共通理解を前提にして、それを下地にしなければ、確認することすらおぼつかないようなものだろう。しかしその解像度を出来るだけ上げて、もっと細やかで繊細な差異に気付いていけなければ…という話でも良いのかもしれないけど、どうもそういうきれいごとみたいなことでもない。この映画を観ているときの、ある停滞の中で誰かの言葉を聞き続けている状態というのが、決して退屈ではなく、ことさら共感するわけでもなく、しかしなぜか面白いという、その状態そのものの面白さへの興味が持続している。そのことも含めて面白いのだと思う。

あと、思わずげらげらと笑ってしまう場面がいくつかあった、それも印象的だった。本作にかぎらないけど、いまさらながら、映画館で観客たちが笑いはじめるときの感じとはまさに独特なものだ。今日も当然、基本的にはシリアスな話が続いているのだけれども、ある場面にさしかかって、さすがにこれは笑うところじゃない…?といった気配が少しずつただよってきて、その次のセリフで、ぼろぼろっと何かが崩れるかのようにあちこちで笑いが沸き起こる。映画館に集まるというのは、集まったみんなで映画を観るということで、一人で観るのと根本的に違う体験だというのは、たとえばそういうときだろう。そのとき、自分が笑っていたのか、自分以外の誰かが笑っていたのか、あまりおぼえてないけど、とにかく自分を含む客が笑っていた。映画のシーンを観て客(自分)が笑っているのと、そんな劇場の雰囲気に対して客(自分)が笑っているのと、客(自分)という塊が、二重の笑いを感じ取っている。