踵を見る

朝、駅へと向かって歩いているとき、前方を歩く人とスピードがほぼ一緒なことがある。こちらが速度を緩めたり早めたりせず、何も意識せずに、相手の背後について歩く状態が続くことになる。こうなったとき、自分は視線を下げて、前を歩く相手の踵のあたりをじっと見つめている。踵を見たいのではなく、そのように前を見ずに歩くモードになる。前の人が壁になってくれるので、周囲を注意しながら歩く必要がないからだ。こうして相手の踵のあたりに視線を落としたまま、同じ速度で歩きつづけながら、自分は半自動的に歩いている、というか歩かされている感覚になる。気持ちが「歩く」モードから「移動する」モードへ変わっている。自動車に乗って、運ばれているような感じに近い。同じことは、ジムのランニングマシンでも感じる。最近、ジムのランニングマシンで走るなんて全くしてないので昔の記憶だけど、あれは同じ場所で走っているのに、周囲に気を配る必要がないし、前を見てなくてもかまわない。じっさいランニングマシンで走る誰もが、走りながらイヤホンを付け前面にあるモニターでテレビを見ているのだ。ソニーウォークマンを発売したのはすでに四十年近く前で、あれが外を歩きながら音楽を聴くというのを一般化させたのだが、以来、全力で走りながらテレビを見たり本を読んだりするのも、当たり前のことになった。それは錠剤で栄養素を摂取し、食事を簡素化させて生活文化の重みから解放させることが当たり前になったのに等しいだろうか。「歩きながら音楽を聴くなんて絶対にやめるべき、歩くときは歩くことのフィードバックをきちんと受け止めるべき」というのは正しい。しかしそう思いながら、うつむいて他人の踵を見ながら半自動的に歩いていると、このまま映画の一本でも観ることも可能じゃないかという気もしてくる。そういえば休みの日にずっと本を読んでいると、この時間がもし電車内なら、どこまで移動できるだろうかと思うことがある。電車内ならどのへんまで読み進んだところで一旦中断が入るのだろうか、それが無い休日ならではの中断ポイントはどこなのだろうかと思うときがある。