勲章

永井荷風は「勲章」(1946年)で、自らが通い詰めるオペラ館の踊子部屋についてひとしきり記述した後、その混沌とした有様を以下のように例える。

オペラ館の踊子部屋というのは大体まずこんな有様で。即ち散らかし放題散らかしても、もうこれ以上はいかに散らかしたくとも散らかすことはできないと思われる極度の状態である。それは古ぎれ屋か洗張屋の店の引越騒ぎとでも言わば言われべき、何とも彼とも譬えようのない混雑である。しかしこの混雑の状態は、最初一目に見渡す時、何より先に、女の着る衣裳の色彩の乱れと、寝たり起きたりしている女の顔よりも、腕や腿の逞しい筋肉が目につくので、貧院や細民窟の不潔や混雑とは全くちがった印象を与える。これを形容したら、まず花屋の土間に、むしり捨てた花びらの屑や、草の葉の枯れくさったのが、滅茶々々に踏みにじられたまま、掃かれもせずに捨てられてある趣があるとでも言われるであろう。
 安香水と油と人肌と塵埃との混じ合った重い匂が、人の呼吸を圧する。階下の方から、音色の悪い楽隊の響や、人の声が遠く聞えて来る。木造の階段を下駄ばきで上り下りする跫音の絶間がない。これ等の物音は窓外の公園一帯の雑音と一つになって、部屋の低い天井に反響する甲高な女の話声、笑声、口ぐせになった練習の歌声などのそうぞうしさを、馴れればさほどにも思わせない程度に和げている。

もうこれ以上は散らかしようがないと思われるほど、極度に散らかった部屋、もはや例えようもないほどの混雑、混沌、未整理、乱雑さがその部屋を支配している。にもかかわらず、その部屋の状態を見わたすとき、何より先に「女の着る衣裳の色彩の乱れ」、「寝たり起きたりしている女の顔よりも、腕や腿の逞しい筋肉」が目につくのだと言う。だからそれは「貧院や細民窟の不潔や混雑とは全くちがった印象を与える」のだと。

要するに、女の衣類や持ち物が散らかった部屋の混沌が、好色な老人の眼には魅惑的に映ってるだけに過ぎないとも言えるのだが、しかしこれはこれで、その魅惑に溢れた有様のいかにも荷風らしい言い方だと思う。たとえば谷崎潤一郎も、自らが惹かれる対象についてしばしば言葉を重ねるけれども、谷崎のその手の言葉には独特の粘り気というかいやらしさというか固有の匂いのようなものを僕は感じるのが常なのだが、荷風についてはそのような「臭み」をほぼ感じない。これは単に好みの話に過ぎないのだけど、前述の言い方で面白いと思うのは、その部屋の状態を見わたすとき、何より先に「寝たり起きたりしている顔」が目に付いたら、それは「貧院や細民窟」的な不潔さ、混沌になってしまう。しかしそうではなくて「衣裳の色彩の乱れ」「腕や腿の逞しい筋肉」ならば、それは貧困や窮乏のイメージを纏わない、そういったものから切り離された、純粋な「混雑、混沌」があらわれるのだと言ってるところだろう。そしてそのような混沌は「花屋の土間に、むしり捨てた花びらの屑や、草の葉の枯れくさったのが、滅茶々々に踏みにじられたまま、掃かれもせずに捨てられてある」ような状態を思わせると言う。ここでの花屋の土間というイメージ。美しく、かつ捨てられるべきものが散らばっている、それだけの状態を簡潔かつ明快に説明している。