長い小説

長い小説を読むというのは、まずそれを読んでいるという確かさが揺らぐということで、なぜなら長い小説とは、どう考えても長大過ぎるので、もしそれを読み始めてしまったら、その小説をもう二度とはじめから最後まで一望できるような何かとしてはイメージできなくなるからだ。それは今読んでいるこの個所、さらに次の箇所、さらに次へ…と果てしなく続く道のりで、それが本当に「この本」の一部なのかさえ疑わしくなるくらい、時にはその箇所がその長い小説のタイトルや概要とされるものから別個に存在するように思えたりもする。まるで海に溺れているように、手に掴める浮きも足の立つ水底も、さしあたり期待できないまま必死に手足を動かしているような心持になりもする。

長い小説のある場面、ある出来事、ある個所は、それらがたしかにその長い小説を構成する要素なのは間違いなかろうが、だからといってそれら一つ一つを後でいつでも取り出せるように束ねておくことにはさほど意味がないように思う。それはどちらかと言えばうねうねと果てしなく続く長い起伏の連続のようなものなので、起伏それ一つの形状だけに着目することもできるけれど、起伏と起伏、その前後との関係によって、起伏は起伏としての存在感をあらわす。起伏の順序を入れ替えたり、起伏一つだけを別の保管場所に移動させてもあまり意味がない。長い小説を読むとはこの起伏の様子をじっと感じ続ける、それこそ何週間も、場合によっては何か月もかけて、それを続けることにあるだろう。

それだけの時間をかけてしまうということは、現実としての季節の移ろいもその中に含みこまれてしまうし、自分の体調や気分が一定の諧調を保てるわけではないだろうから、長い小説はそういった読む自分がかかえる不安定要素をもすべて含みこみながら、終わりのページに向かって進むことになる。とはいえ長い小説がいつか最後のページに辿りついて、それを読み終わることになるとしても、それで何かが終わったとは考えにくい。長い小説はすでに長い時間をかけてそれぞれの起伏の連なりが折々の自分と固有に癒着して、それらで独自の思い出に変わっていて、一つ一つが各々別の小説だったかのように勝手に記憶のなかを生きてしまっているからだ。