駅馬車

ジョン・フォード駅馬車」(1939年)、今から八十年以上前の映画か。しかしクライマックスの騎馬戦闘シーン、これ以上の場面を、おそらく映画はこれまでもこれ以降も、永久に撮ることはできないのじゃないだろうか。というか、今のご時世もしかすると、数年後か十数年後に「危険過ぎるがゆえに閲覧禁止」とか、そういうことにさえ、なりかねないのじゃないだろうか。それを恐れるくらい、この映画の緊張感はすごい。騎馬シーンに限らず、最後の決闘シーンもそうだ。描かないことがもっとも雄弁であるという事実を今さらのように思い出させてくれる。

馬車に浮き具を付けて河を渡る場面。全編のここが白眉と言いたくなるほどに素晴らしい。馬が首から下をすべて水に沈めて、その後ろに馬車が引っ張られて、馭者台の二人の背後からカメラが前方を見下ろしている。馭者は石を投げて馬をけしかける。そうか、河を渡ってしまうのか…と思う。ものすごく簡潔に、あっと言う間に準備して渡ってしまうので、ほとんど007シリーズの水陸両用車かと思うほどだ。

で、その直後にアパッチ急襲シーンがやってくる。このクライマックス。今観ると完全に頭がおかしい。こんな撮影、今後もう人類が同等の表現を残すのは永久に不可能ではないのかと思うようなシーンだ。しかも、出来事(ショット)はすべて核心そのものではなくて、それを示唆するものとして駆動する。銃声は聴こえても、その弾丸がどこから発射されどこへ命中したのかは実際に捉えられていない。しかし疾走する馬から人が崩れ落ち馬は姿勢を崩し、あるいは握りしめた拳銃が手から滑り落ち、あるいは酒場に戻ってきた男はカウンターの前で唐突に倒れて絶命するのだ。

最後に保安官が女をリンゴと共に逃がそうと判断する瞬間も瞬時で、まるでふいに思いついたかのような唐突さだ。彼ら二人はほとんどハプニング的に逃されてしまう。二人はこの映画のエンドクレジットが出終わったあとくらいの時間になって、ようやく顔を見合わせて今の出来事への驚きをお互いの表情にあらわすのではないだろうか。いい気分でいるのは急に心変わりした保安官と医者のトーマス・ミッチェルだけ、彼がこのあと呑むだろう美味い酒の味を想像するだけで、なにしろ何もかもが性急で映画の登場人物も映画を観る者も一緒になって出来事に振り落とされないように必死になってるような感じだ。