上手い

猪熊弦一郎は1938年に渡仏して、マティスに会って自分の絵を見せたときに「おまえ上手いな。上手すぎるんじゃないか。」と言われたらしい。「おまえピカソが好きだろ」とも。

猪熊弦一郎はたしかに上手い。上手すぎる。よくわかる。

マティス的な絵においては、絵画としての要素(色や線やそれらの複雑に絡まり合ったもの)が、観る者の個々の記憶へと接続されるまでの速度と、その瞬間の要約不能な出来事の可能性にこそ、その制作でもっとも注意が払われていて、そこにこそ待ち望まれてるものがある。

「上手い絵」は、絵画としての要素と、観る者の個々の経験や記憶との接続速度が、期待値として瞬時であり、異なる二つの要素がなるべくスムーズに、できればなかったことにされるほどの滑らかさで結びついてしまいたい。だから制作は、それが制作された事実さえもなかったことにするための証拠隠滅作業のようなものになる。

「上手い絵」は、すでに作用が終わったもの、それを経験した後の気分、過去への甘美な郷愁から逃れられない。そうではなく、これから何かがはじまるための仕組みとして、絵をとらえているか。その覚悟が決まっているかどうか。

このときの猪熊弦一郎の絵がどんな絵だったのか、「ピカソが上手くなった」ような絵だったのか、または「上手くピカソの特長をとらえてる」絵だったのか。

あるいは、マティスピカソのことも「絵が上手すぎるやつ」と思っていたのだろうか。