あなたの顔の前に

ヒューマントラストシネマ有楽町でホン・サンス「あなたの顔の前に」を観る。作家としてのホン・サンスも、少しずつ変わっていくのだなと思った。とても味わい深いというか、こういう面白い映画を観ることができたときに、大げさなようだけど、生きていることに多少なりとも張り合いというか手応えのようなものをおぼえるところもある。あー良かった…という余韻のなかに、しばらくのあいだは浸りながら生きていけることのありがたさをかみしめるような。

あまりどうのこうのと言葉を連ねたくない感じでもある。ただ、最初から最後まで、イ・ヘヨンが素晴らしいとは書いておきたい。もう決して若くはない陰影をたたえた女性の顔が、朝の室内光に浮かび上がる冒頭の場面。外出時の彼女のトレンチコート姿が、また素晴らしい。妹と向かい合って、外で朝食をとる場面、はじめはまっすぐに座っていたイ・ヘヨンが、ぐっと身体をねじって、コートの前が空いて、足を組んで、身体全体が斜めになり、コートが後方へ広がる。この姿勢の変化する様子。

いつものことながら、いくつかの強い説得力をもつ場面によって、とにかく納得させられてしまうという感じでもある。最初と最後に置かれた、妹の寝室の場面とか、終盤、居酒屋を出て、雨の中一本の傘を挿して遠ざかる二人の後ろ姿、トレンチコートの立てた襟元から背中そして裾にかけての、雨に濡れた感じ。

妹と姉はお互いを知らな過ぎることを認め合う。あなたは昨日どんな夢を見た?たぶん良い夢、正午を過ぎたら夢の内容を教えてあげる、妹はそう姉に言うが、姉は出掛けるべき場所を目指してタクシーに乗り込む。

小川にかかる橋の下で喫う一人タバコ、今は店舗になっている、かつて暮らした家と庭を訪れ、そこで働く店の従業員と並んでベンチに腰掛けて喫うタバコ、居酒屋「小説」のドア脇に、壁にもたれてふたりで喫うタバコ。火をつけて、すーっと吸い込んで、ひと呼吸おいて、やがてふわーっと煙が吐かれる。

私の顔の前に存在するすべて、視界を通じて感受できる全物象が、真実であり、美でもあって、光に満ちた存在に感じられた、そんな経験を私はしたと語るイ・ヘヨン。

あの空き瓶と食べ残しの皿に散らかった居酒屋のテーブル、ヘナチョコ演奏で奏でられるギター、深まる酔い。ホン・サンス映画の常連俳優クォン・ヘヒョは、その顔を見ただけですぐに「信用できない」ことが明確なのは、良いことなのかどうなのか…。ともあれ二人の酒宴はえんえんと続く。

前の夜の出来事が、今朝になったら笑いに変わってしまう、わかってしまうこと。しかしあなたの見た夢、見えないこと、知り得ないこともある。明かされないままであること、それはかすかな希望でもある、かもしれない。