ホン・サンス「正しい日 間違えた日」


観た感想を一言で言うならば、面白かった。それは間違いない。しかし、そんなことよりも、まずチョン・ジェヨン演じる映画監督は、キム・ミニとはじめて出会うあの場所で、そもそも何をしようとしていたのか。日当たりの良い場所に座って居眠りをしようとしていたのか。キム・ミニが姿をあらわす前に、女子三人組が写真を撮ったりしているのを避けるようにして、チョン・ジェヨンは一旦その場から立ち去るが、わざわざまた戻ってきて、座り込んで眠ろうとする。しばらくしてふと目を開けると、そこにキム・ミニがいる。いつものことだが、妙に現実感の薄い、夢っぽい展開。


チョン・ジェヨンは、どうなれば満足だったのか。前半は不満足で、後半はまあまあ満足なのだろうか。というか、この映画は、誰が何を求めてつくられているのか。登場人物の満足感が目指されているのか、作り手の満足感なのか、あるいは観ている我々の満足感か。…ここまで書くと、そりゃ観ている我々の満足感のために映画はあるんだろうと思うが、つまりそういう大前提であるはずのそのへんが、いつものことながら、大変もやもやとするのであった。


最終的に、キム・ミニが満足そうであれば、それで良かったのだろうか?それが望みだったのか。誰の望み?チョン・ジェヨンのか。だとすれば、後半は、大成功だ。登場人物のチョン・ジェヨンにとっての大成功だ。しかしチョン・ジェヨンは、一度目の過ちを犯さないように二度目の行動を決めているのか、そんなことが可能なのか、そういうことが可能であることが前提の映画なのか、それとも通常の映画と同じく登場人物はその世界の中で特権的な視点などもたずに単に我々が現実を生きるのと同じように行動した、その別のパターン例が提示されただけなのか。そうだとしたら、しかしそれが、いったい、何だというのだろうか。


この映画の作り手が、最終的に登場人物としてのキム・ミニを満足そうな、幸福そうな状況に持っていってあげる、作品を、そういうものとして作ることは可能だ。ホン・サンスの作品では脚本が無いという話だから、監督と言えども、思ったように物語を展開することは困難なのかもしれないが、それでも多少強引なことをすれば、どうにかなるのではないか。また、この映画では、後半のチョン・ジェヨンはあからさまに前半の失敗を冒さないような態度を先回りして取っているようにも思われるのだが、そればかりとも言えない、かなり思いつきな、行き当たりばったりな行動を取ってるようにも思われ、なにしろ前半よりは後半の方が、キム・ミニを怒らせることは少なかった。というか最初にちょっと怒らせるけど、あとでマシな展開になる。そうしてあげたのだ。キム・ミニは劇場で後ろの席に座った映画監督と別れの挨拶を交わし、少し名残惜しそうな表情をするも、やがて上映がはじまったその監督の作品に視線を戻し、そのまま映画の世界に没入していく。映画が終わったあと、満足したような様子で劇場を出たキム・ミニは、雪の降る中を歩き去って行く。それがラスト・シーンである。


後味よくキレイに別れて、あとは俺の作品を観てくれみたいな、よくもまあ、こんなラストにしますねえと、さすがに呆れてしまうというか、いつものことながら苦笑いしながら立ち上がるしかない感じなのだが、しかし、いつものことながら、本作も異様だ。ホン・サンス作品の登場人物の男性は基本的に、ことに意中の女性に対しては、おそろしいまでに自分本位で手前勝手で自己都合優先型の妄想というか期待を持って接するし、思った通りになれば良いと考える自分に屈託も躊躇もない。世の男性なら、そういうムシの良い考えを思い浮かべることが全くないとは言わないが、直後に思い浮かべた内容を恥ずかしく思ったり、だめだだめだ何を考えているのだと気持ちをリセットしたり、大抵なそんな反応を被せて自分をやり過ごすのが普通なので、このマン・マシーンのようなホン・サンス的男性というのには、ほとんど呆然とさせられるのだが、ここまで来るとそのモチベーションの核がいったい何で構成されているのか、ほとんど不気味ですらある。泣いたり笑ったり、相手の目前で感情をおもてに出す態度も、ほんとうに制御できなくて図らずもそうなってしまっているのか、そういう態度が効果的だと思っているのか、そんな狙いは無いけど、制御できなくなること自体を目的として、そこに快楽を得ているのか、観ていると根本的にわからなくなったりする。


キム・ミニよりもチョン・ジェヨンの、キム・ミニを見つめるときの表情や、泥酔して嬉しそうな表情や、自己憐憫的に号泣するときの様子や、笑顔で受け答えしてるときの表情、チョン・ジェヨンのことばかりが心に残る。得体の知れない大きな不可解さのようなものとして、記憶に残り続ける。


帰宅後、「ヘウォンの恋愛日記」をDVDで、続けて「次の朝は他人」をDVDで再見する。


「次の朝は他人」の方が「正しい日 間違えた日」よりもまだ映画っぽい仕掛けに満ちていて、映画的っぽさが逆に安心できる感じだ。自分から誘ったくせに、飲みに付き合おうと付いて来る学生にいきなりキレて逃げ出すとか、ここでも行動の唐突感が現実のものとも思えず、もやっとした夢/現実の曖昧な領域に観る者は置かれる。この作品は同じシチュエーションが三度繰り返され、少しずつバリエーションが違うという意味で「正しい日 間違えた日」と同系統なタイプの作品であるとも言えるが、「次の朝は他人」の方が各エピソード同士のつながりがなめらかで、あからさまに最初から最後まで同じ大筋を二回見せる「正しい日 間違えた日」とは感触がずいぶん違う。また「次の朝は他人」では主人公の映画監督は昔の彼女の家にふらっと立ち寄り、朝まで過ごした後で、もう二度と会わないし連絡もしない(後腐れは一切無し)の約束を円満で平和的に相手と結ぶことに成功している。いつもながらあまりにもご都合主義的でムシのいい展開であるが、このパターンは後半でも繰り返される。


つまり「次の朝は他人」主人公の男性は「一夜の快楽」だけが目的で、女性とのそれ以上の付き合いは求めてない。これなら登場人物のモチベーションがわかりやすい。如何にして上手くヤリ逃げるかの試みというだけだ。しかし「正しい日 間違えた日」主人公の映画監督は、どうもそういうわかりやすさとも違う衝動で行動している感じだ。後者の方が、より青臭いというか、中二的というか、行き当たりばったり感が強い。「次の朝は他人」の場合、やってることはしょうもないのに、キスシーンとか雪の降る朝方にタクシーを拾うシーンとかが異様に美的で、店主の女性もコート姿といい表情といい、大変うつくしく撮られていて、その魅力が強い。しょうもない行動と、都合の良い願いと、黙ってても女性が近付いてくる満足感だけしか無いのに、それで成り立ってしまう。しかし「正しい日 間違えた日」ではもっと取り留めのない、ぼんやりとしたものが求められている感じがする。結局は作り手である映画監督の、裏手に隠れてほくそ笑む的な、そういうナルシスティックな自己満足感に過ぎない、という見方もできるだろうが、そうだと断言するのも難しい。しかし誰の望んだ結果でもない、ただなんとなくが二つのパターン並んでる。とも思い辛い。