次の朝は他人

「あなたの顔の前に」を観た一昨日のことだが、帰宅後にDVDでホン・サンス「次の朝は他人」を観返した。「あなたの顔の前に」に居酒屋"小説"が出てきたのと、「あなたの顔の前に」のイ・ヘヨンのトレンチコートが「次の朝は他人」の女店主のリプライズなのだろうと思ったので見直してみたのだけど、しかしやはり思った通り「次の朝は他人」の店は「あなたの顔の前に」と同じ店にはまったく見えない。店の外に出た脇の壁ぎわでタバコを喫うのはどちらの映画にも共通するが、それも同じ場所で撮影されてるようには見えない。というか場所の同一性はわりとどうでもいいことである。そして女店主の着ているコートはトレンチコートではなかった。とはいえそのコート姿もそれはそれで大変美しいのだが。

しかし「次の朝は他人」は何度見てもその鮮やかさにおどろく。何が?と言われても困るのだが、観ていると面白くて仕方がない作品である。(はじめて観たのは2014年で、以降少なくとも3回か4回は観てるようだ。にもかかわらず毎度新鮮な面白さを感じてしまう)

やたらと女にもてる、交友も広い映画監督の男が主人公である。人寂しくなると昔の彼女の家におしかけ、一晩を過ごして、朝になったら和やかな雰囲気でもう会わないことを約束して出て行くみたいな、人あしらいに関するかなりの要領の良さをもっている。映画監督という立場の自分が、若い人から注目され、気にされ、ちやほやされることを知っていて、学生から送られてくる熱烈な内容のメールを見て悪い気はしないが、しかし彼は先輩とたまたま立ち寄った居酒屋「小説」の女店主の美しさに、今は心を奪われてしまったようだ。

女にもてるはずの主人公は、彼女が今ドアから出てこないものか。俺が弾くピアノを彼女は聴いて好ましく思うだろうか。二人で並んで歩いているとき、いきなりキスしたら、それで彼女は自分の思いのままになるだろうか。

それは想像されたわけではなく、すべてその通りになっている。いや、最初はそうじゃなかった。しかし、その通りになる。というか、最初からその通りになっているが、「反復」が起こることで、ならば初回はそうではなかった、のかもしれないという思いが観る者に生じる。

もしこれが一人称小説としてなら、ふつうの話に過ぎないと思うが、いわば一人称の映画になっているというのか。映画である以上、第三者視点であるカメラによって撮影されたものであるのは間違いないのだが、それを平然と非・第三者の話として展開させ、そこのところに言い訳(納得させるための工夫とか配慮)がまったくない。主人公の想像あるいは行動、それが区別されてない。いや想像と現実のような二項対立ではなく、単に少しずらされてくりかえしてるだけ。何の思わせぶりもなく、気付くべき予兆もなく、フラグも伏線もなし。おそろしく図々しく作られている。そのず太い神経によって、出来事は因果をもたず、ただ羅列され、展開されている。決して雑でも乱暴でもない。むしろ繊細である。にもかかわらず、方法に対する言い訳がないのだ。覚悟が決まってるというか、しっかりと腹を括っているのだ。

先輩と友人と先輩の知り合いの女と、主人公と女店主の計五人が、店を出た後、真夜中の雪の中、タクシーを停めようと頑張る場面があまりにも素晴らしい。誰もがかつてこんな経験をしたのではないかと思うような、寒くて酔いが苦しくて、楽しさの余韻がかすかに残った瞬間。

どれが本当でどれがそうでないのかを考えても無駄だ。先輩と友人と先輩の知り合いの女と主人公はふたたび居酒屋「小説」に行って、主人公は女店主を見つめる。女店主ははじめましての挨拶をする。主人公はふたたびピアノを弾く。彼だけは、この世界に不安をおぼえながらも自分の欲望を押し付けていける。ここは、彼の不安と共にある世界だとも言える。

都合二度も、ほとんど強引に彼から抱き寄せられて、壁に追い詰められてキスされる彼女は、にもかかわらず直後に朗らかな笑顔を彼に向けて「早く店に戻らなければ」と応えるだけだ。こうして主人公の彼は元彼女と同様に、彼女と一晩を共に過ごすことに成功し、朝を迎えて、またもや和やかな雰囲気で彼と彼女はお互いにもう会わないことを約束しあいながら別れるのだ。

翌朝の彼は、道で出会う知り合いや学生たちが、なぜか自分に対して余所余所しい態度を取っているように思えて、それをかすかに気に掛ける。でもそれはたまたま浮かんだ彼の想像上の不安に過ぎないのかもしれない。壁を背に写真を撮られている、ぼんやりと浮かぬ顔の彼を見ているうちに、エンドクレジットになる。