フィクサー

DVDでトニー・ギルロイフィクサー」(2007年)を再見。ティルダ・スウィントンという人を最初に知った(記憶に残った)のは、本作でだったと思う。十五年前という中途半端に一昔前の映画だと配信ではなかなか探しにくいのだけど、我が最寄り駅前に生き残っているレンタル屋の棚にはまだ在庫していた。

娯楽映画として申し分ない面白さ。最初から最後まですべてのエピソードに神経が行き届いていて、プロの技で書かれた脚本という感じ。最後の最後に、人間の外側?馬に憑依したある力?より命を助けられて、主人公のジョージ・クルーニーは事態を逆転させることができるわけだが、その終盤にある重要場面をあえて物語の冒頭に置いておくところがいい。

本作において、組織化した人間として悪事を為すのはティルダ・スウィントンだ。人間は置かれた立場のなかでベストを尽くそうとするが、組織内の論理は時として人が悪へ足を踏み入れるのを容易なものとしてしまう。それは大企業の法務部トップでも弁護士でも警察官でも変わらない。ティルダ・スウィントンはおそらく自らの仕事にベストを尽くそうとしているが、この映画は、登場人物の彼女に自省や内省の機会をまったく与えない。自分が悪を為していると最初から最後まで自覚しつつ悪を為せる人は稀で、悪を為すほとんどの人は、自分のしていることが何なのかを知らない。彼女は終始、深い焦燥と緊張のなかにあり、自分に与えられた役割を必死にこなそうとしている。彼女はほぼ孤独であり、ホテルの部屋で、かなしいくらいに汗の浸み込んだブラウスを脱いで、疲れをたたえた背中をスクリーンに晒す。彼女は最初から最後まで、もっとも揺るぎ無い、まごうことなき悪であると共に、それを観ている我々にもっとも近い場所にいて、この現実に即したリアリティのなかにいる隣人だ。

その一方で人は原則として善に惹かれ善を為す生き物であるとも言える。善を為す者は、ティルダ・スウィントンも勤める大企業の顧問弁護士トム・ウィルキンソンで、少なくとも弁護士たるもの、知ってしまった不正の事実を見て見ぬふりしてやり過ごすことは出来ないし、弁護士たる自分がそれにあらがう力や権利を職能としてもつことを自覚している。

そんな高い志を無くさず精神疾患と闘いながら仕事を続けるトム・ウィルキンソンに対して、たえず理解と共感を示し、彼の心身を最大限に尊重しつつあらゆる助力を惜しまぬ「同士への慮りと厚い人情」を持ち合わせてもいるのがジョージ・クルーニーだ。ただし、人は原則として善を為すものだと言っても、悪の横行を見て見ぬふりをし、それを結果的に許容することもある。その原因は概ね金である。大手弁護士事務所に勤め、高級車に乗り、近所に飲食店を経営しているくらいには羽振りが良さそうだけど、ギャンブル好きが昂じて金使いは荒く身内の借金もあり自分の店は閉店に追い込まれ、なおも借金を支払う目途は立たず、じつは窮地に追い込まれてもいる。

トム・ウィルキンソンが長く患っている躁鬱病によって原告人らの集まる重要な場において常軌を逸した行動を起こしてしまうことで、彼がいったい何を考えているのか、正常な判断を下しうる状態なのか、信用できる登場人物なのか、その判断が遅延させられるのと、ジョージ・クルーニー自身が金の問題に苦しむのとで、弁護士二人が企業の悪事を阻止できるか否か、その顛末がどうなっていくか、その気持ちが引っ張られる。

ジョージ・クルーニーは個人がかかえるトラブルに首が回らないようでもあるけど、それにしてはやけトム・ウィルキンソンのことを心配してあげもする。もう十七年もの付き合いらしいけど、それにしても会社の同僚ってこんなに優しいものだろうかと、やや訝しく思うほどだ。この関係とは、同僚というよりも友人とか仲間とか言うべき間柄だろうと、やはりある遅延を経てわかる。ジョージ・クルーニーにとって兄弟や両親らの身内は、大切でもあるけど付き合うのがやや面倒で、仕事の忙しさにかまけるふりをして出来るだけ放置しておきたいようなものだし、弟のひどい借金を自分が肩代わりすることで今の苦難が始まっている。しかし同僚との関係には、そのような面倒くささはないし、常用薬をきちんと服用しているのか気にかけるくらい、彼のことを親身に考えてもいる。彼にとって身内のように大切(共感できる相手)なのは、家族ではなくてトム・ウィルキンソンである。

といった関係性(与えられたはずの役割通りかそうじゃないか)が、じょじょに見えてくる。というか最初からそうだったものが、物語の推移によってこちらにわかるようになっている感じ。脇役も良くて、冒頭に出てくる金持ちのひき逃げ夫婦も、警察官の弟も、借金返済窓口の初老の男性も、それぞれ見事に存在感あって忘れがたい。トム・ウィルキンソンから連絡を受ける原告の女も如何にも世間知らずな雰囲気で、やっぱりトム・ウィルキンソンは「善人」ではない?と最後まで疑わせるあたりも上手い。

さて、最後にジョージ・クルーニーはどうするのか。終盤、最大のピンチに見舞われたそのとき「ある力」があらわれて、いわば彼を救い導く。だから彼がこのように行動できたのは、自分ひとりの力だけでなかった、そう思ってラストのタクシーの後部座席で、ジョージ・クルーニーは、今朝の霧につつまれたあの場所で見たものを、微笑とともに思い返しているのか。