凱里ブルース

Amazon Primeで、ビー・ガン「凱里ブルース」(2015年)を観た。ゆっくりとカメラがパンしていき、捉えられる対象がゆるやかに移り変わっていくとき、そこに見切れて行くものへの驚きと新たに現われるものへの驚きをくりかえしているうちに、その村の人々が目に受ける光や、音や、肌に感じる気温や空気の質感をゆっくりと共有していくかのようだ。

ことに壁という物質の、テクスチャーの荒々しさは、もう今の日本にはまったく存在しないものだと思う。壁とはかつて、こんなものだったのかと思う。

ビリヤード台は、高低差のはげしい村々の人々が集う盛り場のいたるところにある感じだ。土にまみれたバイクや携帯電話、そこから発する自動音声や盗難防止用アラーム音が、いかにも軽薄な突拍子無さで、深い草木の陰影のなかに強引に溶け込もうとする。

甥の子の行方を追って主人公は旅立つ。女医から預かった、旧友に渡したいシャツとカセットテープを持っていく。緑色の車体、中国の電車が長いトンネルに差し掛かり、暗闇のなかで停車する。

もはや彼の旅は、彼の想像の旅と見分けがつかない。バイクに二人乗りして、カメラはそのバイクを後から追いかけ続ける。まるでビデオゲームでプレイヤー視点を俯瞰に設定したかのように、カメラはひたすら移動するバイクを追い、左右の景色をどんどん流し去っていく。

ヤンヤンという女の子が、唐突に出てくる。目の大きなキレイな子だ。洋服を修理してくれる。今日はライブだから早く仕事を終えたいのだ。そのとき通り掛かった床屋の娘、主人公はハッとして、上半身裸のまま彼女を追いかけ、途中で手に持ったシャツを羽織る。それは老女医から預かったあのシャツではないか。

彼女が一足先に村の様子を見に行く。渡し舟に乗って、向こう岸を巡り、橋をわたって、また再び元の位置に帰ってくる。その間、ずっとアンプで拡大された楽器演奏の音が、低く響く振動音のように聴こえている。今日がお祭りで、ライブ演奏があると誰もがわかる。さっき荷台に機材を積んでたあの若い子たちだろうと、映画を観る者はわかってる。

「彼女に捧ぐ一曲」をキメた後、主人公はバイクの男から促される。「そろそろ船が出る時間だぞ」と。床屋の娘にカセットテープを渡して、主人公はその場を立ち去る。道中バイク男の名前を聞き、それが甥の子の名であることを知り、「これは夢だろうか」とつぶやく。

川沿いの旅館で、主人公は老女医の旧友がすでに亡くなったことを知らされる。行きと同じように汽車に乗り、窓の外を見ている。タバコの火花が暗闇の中に散って消えていく。トンネルの暗闇を抜ける。全面緑の情景が、あふれ出すかのように窓一杯にひろがる。