彼女のいない部屋

Bunkamura ル・シネマで、マチュー・アマルリック「彼女のいない部屋」(2021年)を観る。マチュー・アマルリックって、こんな気合い入った映画を作る人なのか…と、驚いた。主演のヴィッキー・クリープスが、一人で夫や子供の元を離れ車で逃避する場面からはじまり、以降時系列的な説明をほぼ放棄したような、要するに何が起きてどうなったのか、その解釈をある程度観客にゆだねて、過去から現在への流れと主観/客観の視点転換を混在させたような映画になっている。

主人公の見たもの、主人公の想像したもの、主人公と無関係な客観視点から見た他登場人物の行動、彼らから見た彼女、そのことの信憑性、想像されたこと、現実の出来事、事実としての過去、潜在的可能性としての非事実・・・。

この映画は原則として各場面が、上記のどれに該当するのかを示すことがない。ただ見ていうるちに「つまりはこういうことなのだろうな」と、うすぼんやり気づかせる程度には、説明的な要素もかすかにはある。

ただこの映画の面白さは「要するに事実は何か」「つまりどういうことだったのか」といった謎の解消にあるわけではなくて、むしろそのように解決を求める心の動きがつい排除してしまいそうな、どうでもいい細かいいくつもの場面の集積にあるだろうと思う。

家族が寝静まった早朝、こっそりと家を出ようとするヴィッキー・クリープスが、うっかりピアノの鍵盤の上にものを落としてしまって、静寂を切り裂くようにピアノの音が鳴ってしまう冒頭の場面に続けて、朝の食卓で父親に急かされる長男が立ち上がって席を離れるとき、着ていた衣服の裾のファスナー部分がテーブルのカップにあたって高い音を放つ。

車を運転しながらカセットテープで娘のピアノ演奏を聴くヴィッキー・クリープスとまるで超能力で対話するように、娘はピアノの前に座り練習する。

すべての場面は無関係ながら連動していて、すべての音が---とくにピアノが---時間も空間も越えて映画の中に無造作なやり方で配置されるかのようだ。この映画はなにしろ、「音楽」がいい。音楽を聴いているだけではないかとさえ思わされる。

おそらくはヴィッキー・クリープス演じる女の、あるヤバさであり、ある悲劇であり、悲しみであり、そういうところに落ち着けてこの映画を観たことにしてしまうのが、一つの解法だろうとは思うのだが、しかし最近、個人的にはたいへん忸怩たる思いがあって、たとえば先週見た「みんなのヴァカンス」もそうなのだけど、あれを見た感想を先週書いているけど、そのあとで、たまにふと、くだんの作品のある場面など思い出すたびに、ああ、自分はこの映画について、この豊穣な豊かさというか、心を沸き立たせるようなある力について、まったく触れることができてないではないか、、と思って、それに酷くイラつくのだ。

この映画もそうで、見終わってしまって直後から、ああ、あの場面もこの場面も、これは手からどうしようもなく零れ落ちてしまう面白い場面の記憶を、こぼしたくなくて、じたばたするしかないな、しかしそれらを全部保存しておくことは不可能だな、、と、感想を言葉にするなら、はじめからあきらめモードになるしかないような、とにかく今ここに観た面白さを面白かったと言うしかないようなものだなと思ったのだった。

最近、面白い映画となると皆そうで、面白さに言葉がまったく追いつけないことへの苛立ちが強い。自分の力不足を嘆くだけなら良いが、作品に対して無礼な態度になっているとしたらそれは是正されねばならない。

観た映画について書くことを、あたかも見た夢について書くことにように、試せないかと思う。そのような試みは、ほとんど失敗するにしても、少なくとも、その面白さをきちんと見据えたうえで、失敗覚悟で挑戦してみた、そういう過程として書けないものだろうかと思う。見たものを分化させずに、お決まりのパターンに落とし込むことのないように、言葉という雑な要素への変換をなるべく控えめにして、できるだけひとつの流れとして、要素ではなく、魅力的なおおらかな過程として、絶対に不可能ながらそういうものとして書こうとする。少なくともその意志で試す。その方が、少なくともまだ、やり方としては正しいのではないかと思う。