リコリス・ピザ

TOHOシネマズ シャンテで、 ポール・トーマス・アンダーソンリコリス・ピザ」(2021年)を観る。ちょっと、…予想をはるかに超えて素晴らしかった。

この映画が再現している「過去」とは、意匠としての、たとえば70年代初頭の景色とかファッションとか諸々のアイテムだけではなくて(それも素晴らしいのだけど)、何よりも当時の人間の頭の中に生きていた現実の感覚というか、無意識を占めている条件というか制限というか抑圧というか、そういう社会性みたいなものがやけに生々しく出ているように思った。とても明るくて幸福感に満ちた雰囲気だが、あくまでもそのような仕組みの上で人々が楽しく、あるいはそれなりに、生きているのだと。

もちろん僕は当時のLAの若者らや有名人やその他大勢がどんな感覚で生きていたかなど知る由もない。にもかかわらず、ああ、これはそういうことなのかと理屈ではなく納得させられてしまうような何かがこの映画にはあらわれていると思った。

それは当時の人間一般がだいたいそんな感じだったとか、そんな雑な意味ではなくて、人間なら当然色々な人がいるに決まっているのだが、そうではなくてアラナ・ハイムが演じた一人の女性、彼女はそういう人だったと、そしてそれは彼女と彼女を取り巻く環境や、彼女の憧れや、彼女の失望、諦念などと、よろこびの予感や未知への期待などによって生み出されたものだったのだろうと、そのことにすごいリアリティがあり、そのことだけにものすごく感動させられたという感じなのだ。

映画自体はただ面白くて馬鹿馬鹿しくて笑ってしまうようなものだが、そのエピソード一つ一つに何か心を揺さぶられるものが貼り付いていて、終始笑い泣きしているしかないような気分なのだ。

年齢がおそらく二十代後半から三十歳くらいの女性を演じているのがアラナ・ハイム。十五歳だか十六歳くらいの男の子がクーパー・ホフマンである。たまたま彼女を見かけたクーパー・ホフマンが、アラナ・ハイムをしつこくナンパする場面から映画が始まる。この最初の場面がほんとうに素晴らしくて、このときのアラナ・ハイムの(こんなガキを相手にしてもしょうがない、ナメられたら困る、いい気になって調子づいた相手に付き合う義理も無い、でも暇だし話が全部本当なら面白そうかもしれない、でもそれに応じてしまう私の自尊心はどこに…的な)表情や態度やモノの言い方が素晴らしすぎる。そうなのだ、きっと二十代後半から三十歳にかけての女性というのはこうなのだ。もはや子供ではない、子供っぽい態度は慎まざるを得ない、しかし、実質はまだ子供だし、まだ何事も為してない、知らないこともたくさんあるし自分の将来だってまだ白紙だ。その期待と不安、自制心と行きたい気持ち、その葛藤。

そしてそんな自分にかなり納得が行ってないまま、一応着替えた格好で、彼女はふたたびクーパー・ホフマンの前にあらわれる。子役としてショービジネスの業かいにつながりのある彼によって開かれた世界が自分にとっての可能性に見えて、そのことに目が眩み始めて、あらたに知り合った男、あらたな商売、あらたな挑戦に向けて、話がすすんでいく。

これは恋愛映画のようでいて、じつはそうではなくて、いわばビジネスの物語というか、出会った二人がこの世の中でなんらかの事業を成立させようとして悪戦苦闘する話であって、そこに薄っぺらい布のような恋愛っぽさがかぶさっている。その薄っぺらさ、その言い訳がましさ、その身の内にぴったりと来てない感じは、おそらく二人がいちばん良く分かっているし、正直あの二人が今後末永く、仲良く幸せにやっていけるとはあまり思えないのだが、それでも幸福とはそういうことではなくて、今この映画のなかの様々な出来事の中にしか無いものだなあと、つくづく感じさせてくれるのだ。

アラナ・ハイムがクーパー・ホフマンに自分の胸を見せる場面。彼の「触ってもいい?」との言葉に、すかさずばちーんと平手打ちで返した瞬間は、思わず大笑いして、その直後なぜか涙が出てしまった。なんていいシーンだろう…と思って…。

彼と恋愛関係を取り結ぶということを、アラナ・ハイムは最初から最後まで認めたくないのだ。その彼女の性格が、彼女固有のものであり、同時に家族(父や姉妹たち)からの影響があり、さらに自分を取り巻く環境---ユダヤ教徒の家族であることも含め---からの影響がある。彼女が気にしているのは、彼を好きかどうかというよりも、そのようにして出来上がっている自分が、今目の前にある可能性を許容するのかであって、なかなかその逡巡からは自由になれない。

癖のあるヘンな登場人物が次々と出てきて、笑わせてくれる、そういうところは「よくある映画」言えなくもないのだが、しかし今こうして記憶をたどって思い返してるだけでも、思わず笑みが浮かんでしまう。もう一回観てもいいと思う。