やさしい人

渋谷ユーロスペースでギヨーム・ブラック「やさしい人」(2013年)を観る。映画に、説得されたり納得させられるというのは、そのどんな要素によってなのか、そのことを考えさせられる。(以下ネタバレを含みますのでご承知ください。)

そうか、そうなるのか、それは予想外だった…との驚き。意外性、人の心はわからない、納得できないけど仕方ない…など、先週見た「女っ気なし」同様、この作品もその顛末に観た者のさまざまな反応が予想できるだろうが、真冬の雪が降り積もる山の中の湖畔でのひととき、夜の室内で燃える暖炉の火に照らされ、暗闇に表情を浮かび上がらせるソレーヌ・リゴがヴァンサン・マケーニュに話しかける場面、その翌日ボートに乗った二人が湖をゆっくりと進む場面、二人並んで湖畔に立ち、ほとんど言葉で説明するのが不可能な何ともいえない表情の二人が、前方を呆然と見つめる場面、で、その後のキスシーンと、この一連のエピソード自体の強さというか、この説明皆無の(説明不足な、解釈の余地が閉じ切れてないような)、一連の流れの力だけで、これはこれで良いのだ、これはこういうことで、それ以外ではないのだ、そう決めてほとんど無理矢理押し切ってしまう、それが可能であるとの確信で作られた映画だと言えるのだろう。と思った。

もちろんそこには、作り手の強引な手つきや意外さを強調するような調子などまるで無い。それは単にそうなるし、ヴァンサン・マケーニュは予想される刑期を聞いて「そんなに…?」と思わず呟いてるし、ソレーヌ・リゴが事実と違う証言をする理由とか、彼女がいま何を考えていて、彼女の心がどこにあるのかは、元カレにも我々映画を観る者にも、結果的には釈放されるヴァンサン・マケーニュにもわからないままで、それはきっと、彼を無罪放免へと導いたソレーヌ・リゴ本人にさえわかってない。元カレのあの涙に、理由はあるのだろうか。正直、三人共にけっこうだらしない、ろくでもない連中とも言えるよな…とも思うのだけど、それはともかく、それぞれの内面はあらわされることなく、この事件はなかったことになるだろう。それはいったい、誰が何のためにだろうか。そしてその後に続く彼らの関係というものが、ここにまだ想像できるのだろうか。その後、ソレーヌ・リゴと元カレはどんな話をして、どんなことになったのかもわからないし、ヴァンサン・マケーニュは無事帰宅できたことをよろこぶ父親と共に、クリスマスの御馳走をテーブルに並べて注がれたワインを飲むだけだ。

翌日の日中だろうか。最後にようやく自転車が出てきた。父親が冒頭で話していた通り、二人でサイクリングする親子。はじめから父親の言う事を聞いてれば、こんなことにならなかったのに…と、ヴァンサン・マケーニュの表情が言ってるようだ。(いや、それはうそだ。そんなことを言ってるようには見えない。あの事件以降、彼らの表情には何も書き込まれていないかのようだ。彼らは誰も、何も言ってない。その表情を見るしかない。)