天国にちがいない

AmazonPrimeで、エリア・スレイマン「天国にちがいない」(2019年)を観る。主演でもあるエリア・スレイマンの顔、この顔が良いのだと思う。この顔がこうじゃなければ、この映画はこういう感じにはならない。この映画に起こる様々な出来事を、主人公が見るのと同じように、我々鑑賞者も見るのだが、それは「この人が、この顔で見ている」という状態を見ている。もちろんこの主人公は、出来事に対する反応として、かすかに顔をしかめたり不安をたたえたりほんの少し口元を緩めたりもするので、そんな彼の様子も鑑賞者は見ている。出来事を体験している人が、同時に語り手で、その両方を一気に見せることが出来るのが映画という手段だ。さらに出来事にある色調や諧調を加えることも映画には可能であり、この映画の端々に感じられる不穏さ、重火器や軍用兵器のイメージの現れ方には、体験者とか語り手のさらに奥にいる、作り手の思いとか記憶とかの断片が、浮き沈みするかのようでもある。ただしそれは、そうだとしてもとてもかすかなもので、もしかすると単なる自分の思い過ごしではないかとも思えるような程度のものでもある。何にせよ、この映画は、ややこしさや堅苦しさとは真逆の、はじまりから終わりまで留保なしにひたすら面白いままなので、観終わってからは一緒に観た人に向かって「あの場面がああだった」「あの場面であの人がこうだった」と、笑いを再発させつつひたすら際限なく感想を言い続けるしかないような状態にさせられてしまう、そういう稀にしか出会えない面白さの作品ではある。そしてそれは、本作品の監督であり主演でもあるエリア・スレイマンという人物の、その外貌、その表情、雰囲気、表情、態度と不可分な面白さの記憶で、だから彼の顔が良いのだと言うしかないのだが、そんな風に相手の風貌を賛美させられてしまう事態そのものにはかすかな不服を感じる。相手の仕掛けた罠にみすみす嵌ってしまっていることの不本意さを感じている。