夏物語

録画してあった、エリック・ロメール「夏物語」(1996年)を観た。ギターを背負ったおそらくはミュージシャンを志しているガスパールという名の若い男が一人、夏の避暑地にやってくる。恋人レナと待ち合わせて後日島へ向かう予定だが、しかしそのレナとの約束そのものが、どうにも心もとないもののようだ。しかしガスパールにとって、おそらくそれはそれで良かったのだろう。ガスパールにとっては、ギターを弾き曲を作ることが、いまはいちばん大事なことだろうから。夏休みを人並みに彼女と避暑地で過ごすことにはやぶさかでないけれど、別にそれを心から求めてもいない、そんな風にも見える。彼はたぶん一人でいることが、それなりに好きだ。にもかかわらず、彼はなぜか一人のままではいられない。お店の給仕をしていた気さくなマルゴと知り合い、ディスコで目の合ったソレーヌとも知り合って、彼は一気に三人の女について考えを巡らさざるを得なくなる。

ガスパールは、黙っていても女から好かれるような男ではあるけど、決してナンパ師ではないし、軽くてチャラいわけでもない。女の扱いに慣れていて、万事スマートにそつなく物事をこなせるわけでもない。適材適所に適度なサービスと優しさを振る舞い、必要時には残酷なまでに無慈悲な姿勢を見せる非情さを持ち合わせているわけでもない。ガスパールはただの、音楽に憧れて、夜な夜な一人で夢中になってギターを弾き続けることを好む若い男でしかない。そんなガスパールが、このたびいきなり「モテ期」を過ごすことになったみたいなこの映画だけど、想像するにたぶん彼は、年がら年中このような経験をしているわけではなくて、これほどの「女難」は彼にとってほとんど初のことだった。嘘みたいな偶然がたまたま重なって、それが現実だとはとても信じられないような瞬間に立ち会うことが、生きていれば何度かはあるものだ。ガスパールにとってこの夏は、たまたまそんな夏だった。だからこれだけバタバタとすべてが不手際に終始して、すべてが裏目に出て、甘い見積もりの、浅はかな思惑の、無根拠な楽観性のすべてが、思った通りにはならなくて、最終的にはすべてを放擲して、彼は避暑地を後にすることになる。だから彼は、恋人だったレナのことも魅惑的だったソレーヌのことも、結果的には自ら見限ってしまうことになる。それを彼に決断させた決定的な理由は「前からほしがっていた8トラックのレコーダーの掘り出し物がついに見つかったぞ、でも明日までに手付金を払わないとダメらしい」という友人からの電話だった。サンキュー、ああ、やはり俺はミュージシャンだった。この五分か十分の間に、いくつもの電話がかかってきて、いきなり崖っぷちに追い詰められたみたいな自分だったけど、結局この掘り出し物のレコーダーこそが、俺が本来選ぶべきものだったとガスパールはいきなり考える。いわば初心に戻った。とても卑怯で自分本位で、最低な初心回帰。そうなのだ、よくおぼえておくがいい。若い芸術家志望の男というのは、例外なくこういう側面があるのだ。ガスパールの卑怯さを思うと、レナもソレーヌもじつに気の毒である。彼女らにも彼女らなりの我儘さや傲慢さがあるのだけど、それにしたって彼女らはそういう自分の弱さを自分なりに引き受けているし相手に伝えている。男との付き合いに対して必要なペイとリスクをきちんと提出している。それに引き換えガスパールの説明不足と言い逃れに終始する卑小さはどうだろう。しかしくりかえすけど、よくおぼえておくがいい。こういう男はいる。ありふれてると言っていい。くれぐれも気を付けられたい、芸術家にあこがれる人間には要注意だ。

そんなガスパールとかろうじて「まともな」関係を維持できたのは、マルゴだけだった。彼女は当初、自分からガスパールにアプローチした、というか、友人のように気さくに話しかけたけど、そのまま恋人のような関係へ向かうことは周到に避けるかのようでもあった。ガスパールがほかの相手と恋人関係を演じることの不慣れや違和感を嘆き、どうも違うのだ、君とのように自然な自分で居たいのだという言葉を受け取る資格のある相手として、マルゴはおそらく自分を自覚することができた。ガスパールの利己的で自分勝手な、結局は保身を第一に優先している態度から、とりあえず自分は傷つけられない場所にいることを知っていた。そしてガスパールがふと気を許せば、こちらになびいてくる気配に気づいてもいた。それを計算や策略ではなく、たまたまそのような関係になったからと、いわば先手を打ったことで得た余裕によって、彼の思惑の対象からズレることができたし、最終的に直接傷つけられることもなく済んだ。

それは、マルゴがマルゴのような人だったからだ。でもだからと言ってマルゴが幸福だったわけではない。むしろ最後まで寂しかった。とはいえそれは、おそらく最後に約束をすっぽかされるはずのレナやソレーヌが味合わされただろう生臭い寂しさとは違って、どちらかと言えば季節が過ぎていくことの寂しさに近いものだろう。誰かが悪いとか、誰かのようであるべきとか、そういうことでもなく、それはマルゴが、マルゴのような人であるからだろう。