報い

たぶんいそがしかったのだと思う、と、ひとまず書いてみた。

ただし、こういうことは、意外と、なかなか思い返せないのだ。忙しかったという感想を書くことはできても、その内実は書けない。書いたら、その内実になるかもしれないが、それが忙しかったという、この感じを表現してくれるとは思えない。

実際に、忙しかったはずなのに、終わってしまえば、そうでもない、忙しいというほどでも、なかったんじゃないかと思うのだ。それは、もはやそれを表現しえないだろうという慣れ親しんだ予感と共にある。これはおそらく、ふだん日々文章を書くような人間でなくても、誰もが感じていることで、ああ今日の、この忙しさの感じ、この疲労の感じ、この取り留めのない、まとまりきらない、何もかもが結線を結ばないままに四方八方に広がってそのまま今もうねりながら稼働してる騒々しさを、それでもいったん現場を離脱して、このあとしばらくしたら、幸せなほどにきれいに忘れてしまうのだろうなという、やけに盤石の、あきらめを受け止める大きな穴の中に、これまでのわだかまりを放り込んで解消していく。

よくわからないけど、戦争経験者も、やはりそう思うのではないか、とめどなく、思い浮かんでは消える、様々な記憶があるにせよ、結局のところ、それはそんなにたいしたことなかったんじゃないか、わざわざ人に聞かせるようなことでもない、とりたてて口にするようなことでもないんじゃないかと。

我がことの些細な仕事だの日常だのと、かの戦争を一緒くたにするなんて、あまりにもひどいのだが、でも、戦争だってその当事者にとっては、その人の日常の一環だったろう。だからこそ、やがて思い出せなくなるのだろう。他愛もない、些細なことのようにしか、記憶に残らないのだろう。それは、外からやって来た出来事の経験ではなくて、私自身の内側から発して今も残っている経験なのだ。私にしかわからない質感をもった記憶なのだ。それが戦争であっても、私にはそうなのだ。そして、そのようなことは、書き手のの意志によっては書き得ないのだ。その意味では、そのあなたの単位では、きっと報われないのだ。