食べられる

檜垣立哉「食べることの哲学」を読んで、とりとめもなく考えたこと。殺して食べる以上、殺されて食べられる可能性はある。というのが生き物全体に共有されるルールであるはずだが、人はほぼそのルールの適用範囲外とみなして良いほどの地位を獲得しているとも言えるだろう。しかし生物としての記憶は、別の生き物を殺して食べることを保持しているだろうし、あるいは殺されるとか、食べられながら殺されるという「感覚」をも、過去の共有記憶(純粋記憶)として保持しているのかもしれない。

食べられながら死ぬのは、考えただけで恐ろしいことだけど、それは果たしてほんとうに想像を絶する苦痛なのだろうか。たとえば自分が生きて意識を保ったまま、下腹部から食べられていくのは、考えるまでもなく地獄のような体験だろうけど、しかしそれはもしかすると、同じように絶命してきた生物たちがこれまで提供してきた、はるか過去からの途方もなく分厚い経験の積層から来る、ある不思議な安心感につつまれるような経験でもありはしないのだろうか。

動物と人間との間における殺し合いであれば、そのような仮定は可能かもしれない。でも、だったら戦争はどうか。人間同士の殺し合いにも、過去の分厚い積層はあるだろうか。

人間同士が原則として互いを食べないこと、カニバリズムが禁止されていること、したがって「似た者」は避け、「異種」を取り入れようとすること、「異種」の取り入れすなわち、身体負荷が高いものの接種を人間が好む、その延長線上に、食べられながら死ぬことへの薄っすらとした希求が見えることはないのか。