生きる歓び

生物がもし、ベルクソン的な作用/反作用システムとして存在するのだとしたら、「死」というものももしかすると、今まで想像してきた感じとはちょっと違うのではないか…と、そんなことを考えたくもなる。

生物は自らを維持するために知覚し、時間を感じ、空間を把握するのだとして、「死」は生物が自らを維持できないから訪れる事態だ。ならば知覚は消え、時間の流れも止まり、空間も閉じるのだろう。そう思うべきだろう。

しかし「人システム」としての死は、ただちに別の「生物システム」の生へとシフトしていくものではないのだろうか。それが最終的には火に焼かれてしまうとしても、やはり「物質へと至るまでの旅」はまだ続く、とも言えるのではないか。

(もちろんこの「私」の知覚や感覚が受け継がれていくことはないにしても。そもそも、それが継続すること自体が、さほど重要ではない可能性さえ、ありはしないか。)

まあ、こればかりは、そうなってみないとわからない。しかし知覚が「私」だけのものではないということ、「私の脳内」に完結するだけのものとは言えないこと、そのことの出来るだけの拡大解釈を試みたいとは思ってしまう。

おそらく作用/反作用システムとしての「生物」は、自らを保守・維持するための(危機予想、回避、判断力)知覚をもつことの緊張感や恐怖・不安といった感覚とともに、「生物」として稼働していること自体の「歓び」の感覚を持っているのだと思う。その根源的・システム的な「歓び」の感覚を探っているのが、近代以降の芸術だとも言えるのではないか。