「知覚される(かもしれない)何か」が宇宙にある。それはいわば無時間を、宇宙と同じだけの大きさにおいて「存在していない」状態である。
しかしそれが、時間的幅をもつシステムとぶつかり合うと、システム(生物)の時間的拡張によって「知覚される(かもしれない)何か」は拡張され、さらに空間的には局所化される(空間と時間をとりあえず占める)。
「知覚される(かもしれない)何か」とは、知覚を期待しているものではなくて、単にミクロレベルの時間スケールをもつ何か、という意味だ。たとえば我々には知覚できないだろう時間スケールに存在する何か。
しかしそんな、ミクロレベルでの「知覚される(かもしれない)何か」は、システム(生物)枠内の時間幅と空間幅によって、ときには複数化する。しかもそれはシステム(生物)にとって、継起的ではなく一挙に来る。それが擬縮だ。これによりシステム(生物)内に「質」が生まれる。これがクオリアだ。つまり、その色「赤」を、私が知覚する、そのことだ。(「赤」は本来、何兆回もの電磁波の振動だ)。
ライプニッツの有名らしい波の音の例。
浜辺に行くと波の音が「ザザァ」と聞こえるが、もちろん、そのような単一の音源があるわけではない。そうしたマクロな音知覚をもたらしているのは、一つ一つは聞き取れないほど小さな水滴の「微小知覚(peties perceptions)」が、「集合のなかで識別できなくなってしまう」ことに起因するとされる。
(平井靖史「世界は時間でできている」89頁)
同じように思う人も多いと思うが、この挿話は僕も子供のころから、いつも頭のどこかで気に掛かっていたことだ。
波の音、あの「ザザァ…ザザァ…」という音は、この音は、決してあれ以上、分割できないものだ。それを常に感じていた。一つ一つは決してこの音ではないのに、こうして今、その音を聴いている、その不条理さのようなものを感じた。
なぜこの音なのか、それが不思議だった。水の音、たとえば指先で見ずを跳ねるときの音、水道の蛇口から水が出る音、プールに飛び込むときの音、それらのどれもと、波の音は違う。
いくつかの音が集合すると、音はそのように「形を変える」のだと、いつしか、なんとなくわかったような気になった、というか、考えるのをやめた。
管弦楽団の合奏を聴いて、あの放たれる「ばーーん」という音響を、リアルタイムで、単体で聞き分けて吟味できる人は、おそらくいない。どんなに耳の良い、脳内の解析能力がすぐれている人でも、それを聞き分けるなら、脳内に「録音」した「過去の記憶」に対して、吟味するのだろう。
逆に言えば、別の時間スケールをもつシステム(生物)にとって、管弦楽の演奏は、「ばーーん」と、そのようには聴こえないのだろう。
しかしもしかすると、良き管弦楽の演奏というのは、「ばーーん」を聞き取ることができて、それを期待できる我々人間にとって、その安定感が崩される予兆とセットなのかもしれないが。
話がいささか俗っぽくなり過ぎたが、音知覚が時間スケールによって変わるとの話は、きわめて納得できる、まさにその通りだろうと思われるものだ。
音はまさにそうで、このように聴こえていることの、自分を保証してくれるものはどこにもない、その頼りなさと音はセットだ。