相対化

マクタガート「時間の非実在性」(永井均著、翻訳)を読んでいる。

私がいて、私の過去の記憶があった、そして未来の予想がある。
その私そのものが、いつしか過去になっている。
現在とは何か?「今」という端的な現在を、現在と呼びたい。しかし、私は前述のように、私そのものとして過去になってしまう。


落ち着こう。
端的な、それ自体としての過去あるいは未来というものがあるのだ。
それは端的な現在があるから、それがあるとして、だとしたら、見出せるものだ。
現在とは、過去、現在、未来のなかの現在ではなくて、端的なものだ。私にとっては、そうとしか言えない。
現在を言い表すなら「今、現在である」と言わねばならない。
現在は動く。だから未来にある別の現在からは「お前は過去だ」と言われる。そのことはすでに予想している。
過去にあった別の現在から「お前は未来だ」と言われることも、もちろん予想している。
そのように現在を、相対化している。
いや、そうではない。「今」しか認めない。そう言うなら、過去も未来もないことになる。「今」が「今」でなくなること自体を、認めないのだから。
より前か、より後、でしかなくなる。
でも、あんたの「今」は、動いている。「今」が、止まってない。そう感じてるなら、その動きを感じている時点で、それはあなたが、「今」以外を認めていて、相対化しているとは言えないか?