変化

変化なしに時間はありえない。変化とは何か?何かが生成し消滅することか、何も生成消滅しなかったとしても、その対象以外が何かしらの動きをあらわすから、結果的に時間はありうると知覚できる。

しかし現在は相対化される。時間とは、現在に何かが、変化をあらわすことであるとして、でもその現在も未来から過去へと流れている。今この現在は、過去としての「今この現在」へ流れる。未来だったはずの「今この現在」が、実際に「今この現在」となり、その後過ぎ去った「今この現在」となる。それらすべてが「今この現在」ではある。しかし端的な現在であるのは、常に「今この現在」だけだ。この事態を言葉で正確に指し示すことはできない。「この私」の「この」性を、他人に感じさせることが本質的に不可能であることと相似である。

そもそも端的な「この私」は、絶対に「この私」であり、他人に変わってしまうことがない。おそらく他人もまた、それぞれの皆さんが、端的に「この私」であるはずだが、それはこれを書いてる「この私」が、頭の中で概念的に理解すること以上ではない。他人が端的な私であることを、私が端的に感じ取ることはできず、あくまでも端的な私としてしか感じ取れない。

しかし現在は、そうでもない。現在は「この私」のようでありながら、「この私」を平然と無視して、勝手な動きをする。現在こそが「この私」にとってもっとも厄介で悩むべき対象である。なぜなら現在は、移り行くからだ。

〈現在〉は時点を変え、出来事を変える。〈私〉は、対象として見ていた未来の時点や出来事に、現実になってしまうということが起こるのだ。対象(客体)として見ていたものがいつの間にか主体となっており、主体だったものがいつの間にか対象(客体)になっているということが、繰り返し繰り返し起こるのである。

マクタガート著・永井均訳・注解と論評「時間の非実在性」68頁