時間移動

まだよくわかってないくせに、適当な想定で書くけど(必要なら訂正したい)、フィクションに出てくる「タイムリープ」とは、登場人物の意識が、過去の同人物へ移行するというものだ。

これが実現できる世界とは、つまり「時間とは何か」と「私とは何か」が、すでに解決済みの世界であるのだろう。私(意識・クオリア)の原理がすでに解明されているので、それを物質のように扱うことが出来る。時間の原理もおそらく「ブロック宇宙説」的なところで解明されている。より前とより後は、すべてが実在している。変化をともなう時間は存在してない。その静止した時空を、物質としての私(意識・クオリア)が、まるで前後移動可能な時計の針のように、より前かより後へ移動できる。

時間を移動できるということは「この端的な現在」問題が解決済みであるということだ。つまり「今、この、端的な現在」という、本来「言語化不可能」「表象不可能」なはずの究極の何かが、解明されているということになる。つまり相対化できているということになる。

それでも、ある人物が未来へ行ってふたたび現在に戻ったとしても、その人物の記憶はやはりすべて「過去」に位置付くのだろうか。過去に行こうが未来へ行こうが当人にとってはすべて直近の過去でしかない、というか過去や未来の区別はないということか。そういうところが解明されていて、まったく新たな認識のどこかへ到達しているということか。

しかしやはりタイムリープ(意識だけ移動)よりもタイムトラベル(身体ごと移動)の方が面白そうだ。何しろ別の時制に存在する、自分と同じ身体の自分を、まるで他人のように客観的に観察できるのだから。別にその時間が、より前でもより後でもいいけど、何しろ「今、この、端的な現在」ではない、別の「私」を観察できるということ。体験として面白いのはそっちの方ではないか。

いや、タイムリープも、もし過去へ行くなら、過去の自分の肉体へ再び戻るわけだから、それはそれで凄い体験ではあるが。何というかこう、かつての自分の古いけど若いインターフェイスから来る知覚の大群がバーッと意識に昇ってきて…「うわー高校生の身体、やばい!」とか思うのだろうか。