A系列・B系列

A系列:過去、現在、未来
B系列:より前、より後

「A系列」は、客観的に、過去から現在を経て未来へいたるまでの流れを、フラットに示す。
「B系列」は中心的現在を前提として、その時点より前か後かを示す。

A系列の不可欠性について

現実には存在しない想像上の物語の中でも時間は流れているが、そこにはB系列はあってもA系列はない。ゆえに、時間にとってA系列が不可欠であるとはいえない

という反論があって、それに対する永井均の見解がとても面白いので以下に引用する。

(本書は延々、A系列とB系列それぞれの違い、関係性、お互いがお互いを参照し合ってる部分、ゆえに簡単に切り離せないところ、お互いがお互いを先取り参照しているような側面…について考察を繰り返しており、それは訳と注解と論評で本書の約三分の二を占める、いかにも永井均らしい考察スタイルで幾重にも重なり合った論理の枠の入れ子状態へもぐりこんでいくようで、またそれに伴う別種の関心をも引き出されるようで、ここでの言語表現だけがもつ時間外的な自由度の問題は興味深く、あと比喩に用いられる「写す絵」から近代絵画がすでに遠ざかっていて、時間的配列をあらわす手段であろうとしてないことも想起させられる。)

 一般に、いかなる物語の中にもA系列があると考えることもできる。演劇や映画やテレビ・ドラマを見るときはもちろん、『ドン・キホーテ』のような書かれた物語を読むときでさえ、その物語体験において、必ずある出来事が現在で、他は過去か未来である、ともいえるからだ。
 しかし、これに対しては次のような反論を挙げることができる。A系列的に体験することができない物語の一例。「その川の上流から流れてくる桃を割ると、後に桃太郎と名づけられ、さらにその後に鬼ヶ島で鬼退治をすることになる赤ん坊が、その桃から出てくるような、そういう川へ、おばあさんが洗濯をしに行きました」という物語。この物語にはB系列しかなく、それを実際に読むときにもA系列はない。世界がこのように端的にB系列的なあり方をしていることは可能であろうか。可能だとして、それは時間が存在しない世界だというべきだろうか。
 いや、そもそも可能ではないのだ、とみなすべきであろう。(私はかつてこのことを世界は決して「のっぺりした」あり方をすることができない、と表現した。)この物語にA系列が欠けているのはそれが言語表現だからであって、それがもし実在したならば必ずA系列を持たねばならない、と考えることができる。端的な現在ぬきの前後関係は、すなわちB系列は、ただ言語によってのみ作り出される、と考えられる。ここには言語哲学上の重大な問題が介在しているだろうが、それについて論じている余裕はないので、ひとつのわかりやすい対比を与えることで満足しよう。
 言語の代わりに楽譜を考えていただきたい。楽譜はさまざまな高さと長さの音が生起するさまをその時間経過に沿って表象する記号法であり、言語とは違って、その表象の仕方は時間の流れ方を対象(音の生起そのもの)と共有することで成り立っている。すなわち、楽譜においては、時間が左から右へと流れることが、つまり「現在」が左から右へと移動することが、前提されている。楽譜そのものにはB系列しか含まれていないが、その実演においては、したがってその読みにおいてすでに、A系列の存在が前提されているわけである。つまり、楽譜は音の時間的配列を絵画的に写す「音の絵」なのである。(もちろん、逆に、演奏の側を楽譜の絵と見ることも可能だが、その論点はここで論じている問題とはまた別である。)
 対して、言語は出来事の配列を絵画的に写す「出来事の絵」ではない。言語は、それを喋るにも聞くにも書くにも読むにも、A系列を必要とするが、楽譜とは違って、そのA系列はそれが表象する対象の側のA系列と対応してはいない、「その川の上流から流れてくる桃を割ると、後に桃太郎と名づけられ、さらにその後に鬼ヶ島で鬼退治をすることになる赤ん坊が、その桃から出てくるような、そういう川へ、おばあさんが洗濯をしに行きました」といった文を読むとき、必ずそのある特定の個所を読んでいなければならない(それが現在である)が、その移動の順序は桃太郎的世界の時間的順序と対応してはおらず、もう読んでしまった部分が桃太郎世界の過去で、まだ読んでいない部分が桃太郎世界の未来で、それぞれあるわけではない。すなわち、楽譜とは異なり、言語は「動く現在」を表象していない。このような表象方法は言語にのみ固有であって、それは諸種の時間的表現や「さらにその後に」等の時間的前後関係それ自体を表象する表現によって可能になっている。
 私が書き直した『桃太郎』はもちろんのこと、『ドン・キホーテ』でさえ、われわれがそれらを読むとき、そこにはA系列的な世界が表象されていると理解するにもかかわらず、その世界をA系列的に体験しているわけではない。われわれが体験するのは、最初から言語的に再構成されている物語だからである。それでも、その物語には普通に時間が流れており、表象された世界そのもの(この場合実在しないわけだが)にはA系列時間が存在していると想定せざるをえない。

マクタガート著・永井均訳・注解と論評「時間の非実在性」111頁~