映画

たとえば歩行する人を連続で撮影して、ある場所から別の場所へと移動する様子を複数枚でとらえた写真があるとする。それを重ねてパラパラとやれば、人物の歩く様子がやや細切れ状に再現される。が、ひとまずそれを一枚ずつ並べてみれば、それはある出来事、よどみなく流れたはずの一連の推移が、写真的にとらえられて解体・展開されたイメージの状態に見えるだろう。つまりそこに、おそらくはかつて流れた時間を、技術的な手法によりあえて変換または消失させた結果、のようなイメージを知覚できるのだろう。

連続写真からは時間が消されている。つまり過去がないというか、知覚的な責任がない。知覚は不可避的に、自己防衛の責任とセットになっているので、だから過去の厚みにおいて判断の根拠としなければいけないのだけど、映画はそうではない。というか、なぜ我々の知覚する感覚は、映画のようではなくもっと生命の危険をはらんだ切迫的なものであるのか。

映画が原理的に人に与える安心感があるとしたら、それはかつて流れたはずの時間がいったん漂白されてふるい落とされているという事実を、それを観る者が無意識のうちに感じているところにあるだろう。この安心感がなければ、映画は映画のようには見えないはずだ。