盲視

「世界は時間でできている」を読んでいて出てきた「盲視」という視覚現象を知って驚いた。以下はウィキペディアの記述。

盲視(もうし、英: blindsight)とは、視野の一部分において知覚的には盲である人物が、知覚的な経験('クオリア')を伴うことなく、視覚刺激への何らかの応答を示す現象のことである。

つまり、対象が見えてないのだが、対象を眼から受け入れている。見えてはいないが音や気配でわかる、という意味ではもちろんない。見えてはいないが、見ているのだ。

脳内の第一次視覚野の損傷によって、本来、網膜から視床を経て第一視覚野へとつたわるはずの視覚情報は潰える。しかし情報の伝達先はそれだけではなくて、わずかながら上丘から反対側大脳皮質へと向かいもする。これによって、見えてないのだが対象を眼から受け入れていることになる。

盲視の人は対象が見えないのだが、対象がどこにあるのかをほぼ正確に指で指し示すことができる。あなたは目が見えないのに、なぜそれがそこにあることをわかったのか?と訪ねても、見えないから、わからないので適当に(直観的に)指さしただけだが、正解しているのか?と訪ね返される。(参考:https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpnjvissci/30/4/30_30.109/_pdf/-char/ja

我々はものを見るとき、必ずしも視野の隅々まで正確にとらえるわけではない。

このことは、現代神経科学の知見から納得することが出来る。『ギャノング生理学23版』によれば、われわれの網膜から伸びる視神経の数はおよそ一二〇万本にすぎない。カメラにたとえるならわずか一二〇万画素であり、二〇〇七年発売の初代iphoneの画素数がすでに二〇〇万画素であったことを考えると絶望的なほどのお粗末さである。そればかりか、色を判別できる錐体細胞の分布は中心窩近くに偏っており、周辺視野はほぼモノクロであることがわかっている。おまけに毎秒数回のサッケード(急速眼球運動)のせいで、脳に送られる情報はブツ切れだ。他方で、一次視野覚野に流入する神経線維のうち、網膜からの視神経が占める割合はおよそ四%に過ぎず、残りの九六%は逆に高次視覚野などから降りてくる内部情報だと言われている(…)。右に引用した通り、ベルクソンは混入する記憶に比べて正味の外来成分は「ほんのわずか(peu de chose)だと述べていたが、実際に私たちの視覚体験を司る脳内処理において、正味の外来情報の占める割合は驚くほど小さいのである。(「世界は時間で出来ている」221ページ)

という、そう言われてみればたしかにそうとしか思えないような、不思議な納得感のある言葉のあと、盲視の人物が受け取れないものをあらためて想像できる。つまりは九六%なのだ。ほんのわずかな外来情報---しかしそれこそが本来の外部視覚なのだが---だけを受け取る。知覚や経験以前の、脳へのインプット。見えていないにもかかわらず、それを感じること、見えていないのに、ほぼ正確に掴まれている空間。それはイメージなのか、イメージと言えるのか。

逆に我々が、いかに物を見て、その直後から過去記憶を、惜しげもなく参照しているのか、ほぼ過去の記憶の寄せ集めしか召喚していないのか、それをここでは思い知らされる。それはまるで、おびただしい量の過去の記憶が、風に巻き上げられた枯葉のように立ち上がり、脳内作用と混ざり合ったり反発し合ったりするようなものだろうか。単に対象を見るということだけでも、これほどまでにそのものを見ているわけではない、ということか。