にわのすなば

ポレポレ東中野で黒川幸則「にわのすなば GARDEN SANDBOX」(2022年)を観た。

驚くほど、何の変哲もない、何の見栄えもしない、只の風景ばかりが出てきて、そこをまた人々がただ、ほっつき歩いていた。

永井均の本を読んでいるからといってすぐに感化されるのも我ながらどうかと思うが、しかしこの映画で経験していることのすべてが現在、現在、現在…という感じで、それは今この場の生々しさ、今このときでしかありえないような感触に満ちている気がして、そのことをひたすら感じ取るだけのような時間だった。

音がすごい。外でマイクで録音すれば当然そのような音が録れるだろうと思うけど、そういう雑踏の音がずーっと響いている。車の走る音、どこかの工事現場で鳴る音、おびただしい数の細かい音が集積されて耳をいっぱいにする、ふだん我々が外を歩いていていつも聞いてる音だ。

ただほっつき歩いてる人がいて、たまたま知り合った人々と缶ビール飲みながらふらふら散歩して、飲み会に毛の生えたようなショボい「フェス」の時間を過ごす。この「フェス」が、場所といい規模感といい、ものすごく素敵なのだけど、その「素敵さ」を狙っているというわけでは全くないはず。作品全編から、狙いなどというものを、きれいに拭きとってしまった感じ。いっさいの理由や意味の匂いがしないようなやり方を徹底している感じだ。

かつ、これでやはり一つの挑発というか、階級闘争というか、なにしろ闘いの形式でもあるよな…と思う。幸福でのどかで、ゆるい親密さに包まれているようで、でもそうであればあるほど、それ自体で闘いなのだと思う。

(登場人物間に対立関係があると言いたいわけではない。この映画全部が映画として、この映画の外に対して闘っているという意味)

感じ取るとすれば、何だろうか。登場人物たちから感じさせられる、段階別の距離感、親密感の違い…のようなものか。

主人公のサカグチがなぜその町に留まってしまうのかは不明(グミの呪い?)だが、彼女と関係する人々のうち、タウン誌編集者のタノとか、ビールと食事を御馳走してくれた居酒屋の女とか、古い家の家主のマスコさんなどは、ちょっと大人で、形式的な社交性をもって、完成形の笑顔と、もっともらしい(歯の浮くような、定型の)口上をもっているような人々だ。でもみんな、たぶんいい人だけど、今以上にことさら親密な関係になれるわけでもない。たぶんそのことを明確に意識していて、彼女らと一定の距離感を取るのはヨシノだ。

サカグチは、工場勤めのハヤマとか、スケボーのカノウとか、そしてヨシノとは、ずいぶん親しくなれる。キタガワもそうであるように、彼ら彼女らとは気の置けない関係を気付ける。これはしかし、当たりまえのことな気もする。単に年齢が近くて、話相手としてふさわしいからだ。

なんとなく親戚同士が集まって、その日一日だけ、若い者同士が親密さによって結ばれていくときの感じを、思い出さなくもない。というか、その町の住人らによって、その独特の繋がり方が描かれているのだ。ある共同体のなかで、それぞれの役割が担われている。この作品が、いわゆる「ありえないような不思議なお伽話」とか「夢のようにのどかで幸福な時間」のテイストでは説明できない感じがする理由は、そこらにあるのか。

そのような中で、おそらくキタガワは、独自な孤独の気配をまとっている。小説を書いているキタガワ。キタガワの高校時代の教師ニノミヤがかつてのことを詫びても、キタガワはそもそも過去を気にしていないし忘れている。具体的には描かれないが、キタガワにはキタガワの独自な考えと、キタガワ的な衝動や欲望があり、その独自な表現としてあのダンスシーンがある感じがする。(ニノミヤの「呪い」に対してキタガワは元から自由なのか。)

キタガワはサカグチとも、かつての彼女?だったらしいヨシノとも、自分を共有しない。わかり合おうとか、話をしようとか、そもそもそんな気がなさそうだ。それはヨシノも、おそらく誰もがそうだろうが、キタガワからは、それを強く感じる。幸福な親密感の裏側に、キタガワやヨシノの溶け合わない固有の孤独さが、そのままに置かれたままだ。