智積院

サントリー美術館で「京都・智積院の名宝」を観る。等伯って、やはりフレームに対する感覚が新しいというか、そもそも与えられたフレームはすでにイメージを生成してしまっていて、その枠内に絵を描くというのはすでに、その内側へアプローチするだけでは済まないのだというのを、ほとんど感覚的につかんでいたのだろうと思う。そう思いたくなるような画面全体が、緊張に満ちた「この瞬間にだけ成り立つ全体の感じ」みたいなものに賭けられている感じがある。決して落ち着いた気持ちで、座標を決めるかのように各要素を配置しているのではない。いや結果としては配置だとしても、そのことで生み出されるものは、行為の静的な経緯によるものとは違う。描いた人が見る人に「これを見よ」と指示するのではなくて、描いた人も見る人も、共に「見えるか?」と想像しながら緊張している。

それなりに劣化の進んだ画面であるし、おそらく幾度も貼りかえられたり移動されたり、様々な変遷を経て、今ここにあるのだろうと思われる作品群で、あからさまに別の画面が貼りあわされていたり、通常の屏風のサイズではなくておどろくべき巨大サイズの画面だったりと、時代の変遷が絵にもたらしたものの作用もかなり大きいのだが、それでもここには絵がある、すなわち「この先が見えるだろうか?」といった、描き手も含め絵の前の者すべてに等しく分配された緊張や不安への問いかけがある。五百年も前から、これはすごいことだ。