雪の断章 -情熱-

録画の相米慎二「雪の断章 -情熱-」(1985年)を観た。オープニングでの、雪の積もった屋根を伝って歩くシーンから、お金持ちのお家を去って榎木孝明の家に来て、翌朝になって家政婦と対面して、家を飛び出してそれを榎木孝明が手前から追いかけて、世良公則が彼女を抱いて奥から、川の中を彼女を抱きかかえて登場…という、時間も夜から朝まで経過していて、場所も大いに変わっているはずの一連の流れが、全部ワンカットで撮られている。溝口健二的な、横移動による説話進行という形式を、そのまま過激に推し進めた結果の、ほとんど映画なのか限定空間内での演劇なのか判然としないかのような、どのフレームとどのコードを適用して目の前のものを見て解釈すれば良いのか戸惑うような、このようなやり方であるからかえって時間も空間もひしゃげてしまっているかのような、異様な感触。

それが「十年後」になって、バイクの後部座席でやけに楽しそうな(高速で流れる路面に直接仰向けになっているかのような)斉藤由貴が登場して、このバイクの場面もどうやって撮影したのか不思議なのだが、そういう場面は多々あるのだが、そういう形式上のことばかりを観ているわけにはいかないほど、観ている自分はこの作品にぐいぐいと引き込まれていく。

マンションに引っ越しする人がベランダから荷物を運び入れている、それをベランダから斉藤由貴ら三人が見ていて、後から家政婦がお茶を持ってくる(素晴らしいシーン。ここにあらわれている二人の男と主人公の女と、家政婦という非・家族な関係が、とても面白くなりそうな予感を感じさせるのだが、話としてはそうではない。)。

お金持ちのお嬢さんとの久々の再会、斉藤由貴らが自宅に招かれてのお嬢さんのダンス披露会、そしてお嬢さんの謎の死の後、レオナルド熊演じる刑事は、服装といい振る舞いといいセリフといい、刑事らしさのような雰囲気をいっさい与えられてない。フェンスに腰かけて斉藤由貴を待っている場面は、意味不明な不審者ですらない、こんな人物実在しないでしょ…と言いたいような感じだ。(ただしレオナルド熊だけが三人のつくる三角形の中に入ってくることのできる、ちょっと特別な人物の感じもする。)

世良公則斉藤由貴の函館、二人が一緒になるきっかけになるまでの一連の場面。クリスマスパーティーから、おでん屋なんかが軒を連ねる飲み屋街から、海の見える濡れた路面の道端から、さらに路地の奥へ続く飲み屋街へと、これもずーっとワンカットで、なんてことだ…と思わされる。

斉藤由貴テトラポッドを渡り歩いて世良公則に手を差し伸べるまでの場面も、大概とんでもないけど、とんでもないシーンはこれだけではなく多数ある。なにしろみんな真冬の北海道で、斉藤由貴は水に漬かりすぎで、雨でずぶ濡れだわ川を渡ろうとして舟に助けられるわで、ここ北海道でしょう、いつかほんとうに死ぬでしょ、と思う。というか死ぬことが本作の大きなモチーフで、中盤以降の斉藤由貴は、どうにかして死に近づこうと試みているとしか思えないし、世良公則斉藤由貴に魅了されているのは、それはそうなのだろうけど、同時に彼は、死に魅了されてもいるとしか思えない。

しかし相米慎二的な世界に出てくる異形の者たち・・・ピエロとか人形とかは、それだけで「あちらの世界」がいきなり開かれてしまいそうになる契機であると同時に、あの年代の人間に特有の強烈な内面の作用が見せる彼女らだけの幻想のようでもある。主観でも客観でもない場面の見事な実例だ。

そして結末は、ああー、これで終わりなのかー…という感じ。ある種の物足りなさをおぼえてしまうのは、仕方のないことか。