DVDでイングマール・ベルイマン「叫びとささやき」(1973年)を観る。赤という色が映画に映るとき、それは映画によってさまざまな効果をもたらすだろうけど、本作の赤は、ほとんど色としてではなく、任意の無色というか非色を、赤に代替しているかのような印象だ。赤は全編に横溢している印象なのだが、それは色とも違うし質とも違う、表面でもなければ深奥とも違う、ただそこに充満する粒子というか、背景、地のようなもの。赤がすべてなのだが、時折垣間見えるそれ以外の出来事が結果的にこの映画になっているような感じもする。登場人物たちは赤い背景から浸食されるかのように、身体の量感や回り込める背後を失って、薄っぺらくなった幽霊のようになって周囲を移動するばかりだ。

いつの時代か不明ながら大変裕福そうなお屋敷に住む、三人姉妹のうち次女が病に伏しており、長女と三女と家政婦が看病している。次女は衰弱が酷く死の淵に近づいている。もう決して若くはない女の顔、瞼や目の周辺や口元に刻まれる皺、苦汁に歪む表情、満足に循環しない呼吸、やがて死に至るまでの次女の苦しみ、さらに長女と三女の互いの反目や、とくに長女の自他への苛立ち。それらすべてが、行き詰るようなクローズアップで、彼女らのドロドロとした内面の葛藤ややり取りが、これでもかとばかりに執拗に続いて、観る者はそれらにうんざり、げんなり、辟易な思いをかかえたまま、最後まで付き合わされる。挙句の果てには、死んだ次女が、家政婦、長女、三女の順で、彼女らを呼び出し、彼女らに語りかけ、抱擁を求める。ほとんどホラー映画の領域だけど、彼女の御霊を救い天国へ導くのは、やはり敬虔に看病を続けたあの家政婦なのか。姉妹たちが逃げ去った次女の部屋へ家政婦ひとり戻り、まるで聖母マリアのような姿で、彼女は死者を抱きかかえる。

彼女の死後、屋敷は売却されることになり、家政婦は暇を出される。次女の形見の一部を譲渡しようとの提案を固辞した家政婦だが、こっそりと手元に置いていたのは、病床の次女が日々記録していた日記だった。そこには次女が束の間におぼえたある幸福な瞬間が文字で記録されている。家政婦は、ひとりでそれを読む。現世には苦しみに満ちていて、死の門を潜るにも耐え難い苦痛を経なければならず、死後もただちに天国で安らかであるわけもない。しかし日記という物質、そのなかにだけ言葉として、幸福の印が残されている。

ちなみにタルコフスキーの「サクリファイス」(1986年)は、本作と大変近しい関係にあるように思われる。「サクリファイス」が、本作のほとんどリメイクと言っても良いくらいではないか。両作品とも舞台がスウェーデンであり、撮影監督はどちらもスヴェン・ニクヴィスト、医師役のエルランド・ヨセフソンが「サクリファイス」では主人公を演じている。どちらの物語も「終局」をめぐって、素朴な家政婦に大いなる希望というか救済の願いが込められているように思う。