ネギ

スーパーマーケットのレジ会計で、買い物籠から一つずつ読み込んで精算するとき、あれでレジの人は客が今晩どんな料理で何を食べるのか、おおよそわかってしまうだろうけど、でも別にそんなこと興味も関心もなくて、わかってもただちに忘れてしまうだろうけど、会計する我々客側は、今日は鍋ですとかカレーですとか、わざわざ告白しに行ってるようなものだ。それはそれで、まあ別に良いのだけど、やはり長ネギは買うとき、あれを持ち帰るのは、ああいう長いものは、どうしても買い物袋から飛び出すので、いかにも食材を買い物しましたという感じになってしまう。ネギの入った買い物袋をぶら下げて帰るというのは、僕はついどうしても、鴨がネギを背負って…という言葉を想像してしまい、まるで自分が鴨のような、このまま今晩、自分が捌かれて食べられてしまうにもかかわらず、愚かにも嬉しそうにネギを背負っているような想像に陥ってしまいがちなのだが、なにしろ長いもの、かさばるもの、大きなものは、買い物でそれを持って家に帰るというのは、すごくこう…生活の匂いというか、暮らしの日々というか、そういう何か、たとえばトイレットペーパーとか、お米の袋とか、もっとかさばる何か大きなもの。プラスティックの、その用途以外では、もうどうしようもなく、それだけでしかない、用途を越える希望や思惑の期待がもたれない、ある種の最低線の何か。ああいうのを買うこともあり、買わざるをえないのが、生活だと思う。そういうことの侘しさとか、ざらっとヤスリで削られるような痛み、剥き出しの寒さ、のっぴきならなさは、これから年齢を重ねるごとに、より強く感じるようになるだろうと予想される。それでも何とか、へこたれずに、ネギを背負っていきたい。トイレットペーパーを手にぶら下げていきたい。