昨日は小田急線の向ヶ丘遊園駅から生田緑地を歩いた。天気は快晴、というより真夏に近い陽気。日の当たる場所を歩き続けていると暑くてかなわない、というくらい。でも日陰に入ると空気がすっと冷たいところが、真夏とは違うのだが。
けっこうでかい公園で、岡本太郎美術館などの施設もあれば鬱蒼とした雑木林のなかの散策コースがひたすら続くようなところもあって、それらすべてを含めた公園全体を一日で周るのはほぼ不可能である。もともと我々もこれといった目的があってかの地に訪れたわけではなくて、軽く登山の助走練習みたいにちょっと散歩して、あと適当にふらふらして帰ってくればいいかと思っていただけだったが、まあそういう感じでそれなりに一日過ごせたから良かったけど、けっこう疲れた。
施設のなかで、日本民家園という古民家の野外博物館があって、これがなかなか見応えがあって面白かった。17世紀くらいからの、全国の古民家や建物から移築してきて、それらの建物の外観や屋内の一部を観覧できるというもの。ちょうど先日浦和でみた、戦後日本住宅伝説…という展覧会の、まるで続きのようにして観てしまうことになる。やはり日本の住宅って、間取りとか昔から、ある意味何も変わらないんだなと感じた。17世紀の「北村家住宅」とか「広瀬家住宅」など、たとえば清家清の「私の家」と、感じさせるものがすごく似ているように思った。「住む」ということのすごい切実さを感じたというか。壁一枚向こうは自然だな、というか。
そして、やはり人の家を覗くというのはじつに面白いものだ。古民家であろうが、現代建築であろうが、キッチンがあって、ダイニング・リビングがあって、寝室があって、客間があるというのも見事に変わっておらず、水周りに対する考え方だけは生活様式の違いがもろにあらわれるのでかなり違うが、なにしろ昔の名主の家だから土間は広大なスペースで、敷地の約半分が土間というくらいの割合も珍しくないし、中には大きな農業器具や馬屋まであったりもして、ほとんど今のキッチンの概念とは大きく違って、キッチン+収納+作業場+物置という感じの多目的スペースであって、ほとんど外と中の中間のようになっていたり、また二棟をつなげたような構造の家だと、接続部分に雨樋がしかけられていて、家の内部からその雨樋の裏側が見えたりもする。これなどほとんど過激な建築設計案を見せられたような印象だ。
じっさい、家によっては、17世紀のどころか二十世紀の、もしかすると高度経済成長時代の手前くらいまでは実際に住まわれていたとも思われ、だとしたらそれもたいへん魅惑的というか、家に入ったときの具体的な「匂い」が、自分のまだ幼かった頃にはまだあった空気の匂いであると同時に、前世紀や前々世紀の匂いにもつながってしまったような、昔のものをみて、そういう過去を想像したというのは、初めての経験だったかもしれない。
また、家というものの構造がもつ、容赦のないような鋭さで立ち上がる単純で抽象的な線にも、あらためて驚くのだが、柱や庇の、反自然としか呼びようのない直線の強さ。たとえば三百年前の大工の棟梁はすばらしい職人技だよねとか、そういう話以前に、このような垂直と水平の空間作りを人間が受け入れた過程というものを不思議に思う。このような非現実的空間が、自然のなかに忽然とそびえていることの異様さ、心身への影響を当時の人々はどのように受け止めていたのだろうかと思う。しかしそれは、土間からたたきを経て広間へ上がるときの高さの感じや、奥の客間を隔てる障子までの距離感の感じや、まさにこれしかないという、理屈抜きに「しっくりくる感じ」でもあるのだが。
今日は、一日、神保町の古本屋をうろうろした。予想をはるかに越えて長時間うろうろし、安い文庫本を中心に色々買って、全部で十冊かそのくらい、買い物袋を大量にぶら下げて帰って、じつに満足した。