アンナの出会い

ザ・シネマメンバーズで、シャンタル・アケルマン「アンナの出会い」(1978年)を観る。ひたすら素晴らしい。

本作の説話的な部分というか、主人公をあらわす要素は、すでに「私、あなた、彼、彼女」(1974年)にほぼ全て揃っていたとも言える。また主演オーロール・クレマンの存在感は「ジャンヌ・ディエルマン…」(1975年)主演のデルフィーヌ・セイリグと、かなりの近距離で響きあうものがある。ただしロード・ムービー的な、どこまでも続きそうな移動感覚は、本作だけのものだ。固定撮影が印象的な、ロケ撮影された各都市の駅や建物や繁華街や夜の暗闇のありように魅了させられっぱなしになる。

主演のオーロール・クレマンが、なにしろ素晴らしい。人間というよりただの存在という感じ。ただの物体という感じ。うつくしい女性だが、うつくしい女性がそのイメージから連鎖させそうな意味の生成がいっさいともなわず、投げ出されたように物質感むき出しで、およそ幻想的なものを呼び込んで来ない感じ。

ホテルにチェックインし、上着も脱がずに部屋のベッドに仰向けになって、じっと前方を見つめてる。ベッドサイドのスイッチを押すとラジオの音楽が流れ出す。それを聴いているのか聴いてないのか、まるで無表情なまま、ただ待つ、ただ無為の時間を過ごす、それだけをしている。部屋のベッド、寝そべる女、ラジオの音楽、それらすべてが(音までも)、物質として放り出されているかのようだ。映画も終盤に近付いてようやく見せる笑顔や歌声さえ、やはりそうだ。

いつも同じ上着と赤いニットとスカート。髪の色は光の当たり方によってずいぶん変わって見える。背が高い、背筋の伸びた、きれいな歩き方。全身、バストショット、横から、後ろから、それぞれのパターン。男とベッドにいるときの、堂々たる裸体。素晴らしいプロポーションで、決して痩躯でもないが、まるで油絵の堅牢な絵肌をもつ裸像のような、軟な感情移入など跳ね返すかのような、どこか冷たくて硬質なものを感じさせる肉体。

駅の階段、電話ボックス、郵便局、ホテルの入り口とフロント、左右に並ぶ客室ドア。そして夜を走る列車の客室、窓の外を流れていく景色の素晴らしさ。暗闇と光。滑り込んでくるプラットホームの光と駅名のネオン。

黒に塗りつぶされたような暗闇のなかに、幽霊のように佇んで電車を待っている人。むしろ完全に無人であってくれた方が、よほどマシだと思う程、その一人か二人の佇む姿が、絶望的なくらいの孤絶間、耐えがたいような孤独の、そこにある気配を醸し出している。現実にこんな場所があるのか、こんな時間があるのかと思う。こんな夜の遅くに、こんな駅に乗降するのかと思う。

西ドイツ、この色、暗さ、建物。ケルン。ブリュッセル。そしてパリ。人は行き交ってる。夜でも、たしかに人々はいる。長距離列車は走っている。

彼女の「出会い」は、たまたま知り合って一夜を共にしかけて、翌日家に招かれたけどそれで別れた男。車両内の通路でたまたま話相手になった男。次男と彼女との結婚を待ち望む母親の友人。そして彼女の母親。かなり年上の恋人。映画の始まりから終わりまでこれですべてだ。彼女にとっては彼ら彼女らと出会うことが、仕事であり目的であり、またふとした気の移ろいでもあるのだが、いずれにせよそれは、それはお互いが規則のように交差する通過地点の出来事のようで、何かが変わるのでもなく、彼女が変わるのでもない。
彼女は電話ボックスに入る、ホテルで取次を頼んだ電話を部屋で気にかけてる。まだ携帯電話が無かった70年代当時の、諸々連絡事項をかかえてる人物の電話の扱い方。