自転車の女性

また西川アサキ「魂と体、脳」を再読している。今読むとまた、全然受け取るものが違う。しかしそう簡単ではなくて、数日前からずっと第二章あたりまでを何度も何度も行き来して、いくつもの要素を頭の中に何とか配置させようと躍起になっている。

自転車に乗った中年の女性が、青信号なのに道の途中に停まって、後続の人々のことなど意にも介さず桜を見上げている、その事態に一瞬戸惑い、やがて彼女を後ろから追い越して進もうとした私は、追い越したときに彼女の顔が微笑んでいるかのようであるのを確認する。…という「例」が冒頭に提示されている。この例が何をあらわしているのか。それをひたすら考えることになる。

ドゥルーズによるライプニッツベルクソン解釈がベースの論旨である。まずこれ全体が「クオリア」であるとされる。それを見た私が、主観(クオリア)ではなくて、私や中年の女性によってあらわされる出来事全体が主観(クオリア)である。それ全体が「知覚」のあらわすものだ。

ここに現時点での(おそらくまだかなり浅い)自分の解釈を書き留めておきたい。

道を進もうとする人々や自転車の通行が、コード化された状態であり、知覚にいたらない作用=物質である。そこでは有機体の作用が認められない。非限定的空間の無時間的な状態だ。

立ち止まった中年の女性とは、予測不能性であり「トラブル」である。それは図らずもあらたな水路をなそうとする作用のはじまりで、作用に対して反作用が引き起こされる。それが私の困惑であり、周囲の迷惑や迂回である。

周囲の迷惑や迂回や追い越しや道の変更が、トラブルの結果として複雑に沸き起こり、やがてそれが事実に結実する。可能的/潜在的なものが、永久的対象において表現される。クロノス/アイオーンの異なる時間同士がそこでぶつかり合う。(これは平井靖史ベルクソンのMTSと同じ状況とみなして良いのかどうか)。しかしここで程度の差異ではなく本質的な差異が生じているとは思いたくなる。それを経てクオリアは生じる。原動化(魂)と実在化(物質)に別れて表現される(このあたりはまだ不明)。

自転車に乗った中年の女性や、その後方に位置した私らのすべてが、これらの例として提示されている。自転車に乗った中年の女性とは「不確実性」をあらわすものだが、ベルクソンの「生命のはずみ」こそが、本書の不確実性ではある。("たんなる出来事の事例、それは紐帯と有機的なものに取り込まれてしまう前の不確実性のかすかな例")

モナド、それはこの私を含むすべての先在塊で、出来事の体験連鎖として閉じている。そこでは過去から未来までがあらかじめ規定されている。それは過去、現在、未来があるが、時間の流れが無いようなものだ。時間は流れず、したがって未知はなく、ひたすら規定のイメージが展開され続ける。私とあなたのモナドはまったく無関係だが、しかし相互に調和している。私の心と身体はまったく無関係だが、しかし相互に調和している。