客観

ベルクソンの「客観的」とは、我々がふつうに思い浮かべる客観とは、かなり違う。そのことは事前に充分わかっているはずだったのに、本を読んでいるとたびたび忘れてしまう。まるで、何度同じことを指摘されても、毎回同じところで間違いをおかしてしまう出来の悪い見習い実習生のように、何度も同じ過ちをくりかえす。

我々が「客観的」と思うイメージそのものを、まずは忘れなければいけない。というか、まずはそういうことを思い浮かべてしまう装置の仕組みそのものを止めなければいけない。

客観的な現在という時の「客観的」という言葉に、「観察者から独立」という意味と、「宇宙全域にわたって共通の/普遍的な」という意味が混在している点が話をややこしくしている。ベルクソンは(例外的なケースを除き)ローカルなシステムに相対的にしか時間を認めないので、後者の意味で普遍的現在を認めない。

「世界は時間でできている」194ページ

というのはつまり、「時間問題」すなわち時間の永久主義、成長ブロック主義、現在主義において、ベルクソン説はそれらに抵触しないのか?の見解として、なのだが、ベルクソン的客観は、それらが前提とする支持体を共有しない、最初から相対的にしか時間を認めていないのだということを言ってる。

(というか、、今更ながら永久主義、成長ブロック主義、現在主義に関してネットで検索してざーっと読んでみると、さらに途方に暮れるというか、はー・・・っと溜息をつくしかないようなことが書かれている。ほんとうに、この世界はまだ何もわかってない。読んでいたのはこちら) https://w.atwiki.jp/p_mind/pages/142.html

唯物的ということの、本当のところをどのくらい忘れずに、検討を続けることができるのか。アメーバや、虫や、動物や、私が、それぞれ相互作用システムとして、各々の運動記憶を読み込み、それによって各々の空間と時間をセットする。それを別々の仕事としてやるのではなく、全体として混ざりあい、重なり合いながらする。それでようやく、それぞれが身体を見出す。それを起点にやっていけるようになる。

表象にしかアクセスできないというカント的世界に対するさらに厳しい条件付け…すなわち我々の基盤ハードウェアすら、所与のものとして与えられていない、それどころかこの時間と空間さえ、今ここでそう思えているだけであると。