スズカケノキ

スズカケノキを見上げているときに感じられることこそ、ベルクソンが言おうとしていることに近いんじゃないかな…と、あまり根拠もなく考えたりする。

小石川植物園に行くたびに、あの木肌と、上空を屋根のように覆う枝葉の様子を見上げる。あの幹、木肌の表情、そして高さ、スケール間、それらに対して、それをある途中経過のように感じる。これこそが持続ではないのか、とも思う。思うのだが、スズカケノキの存在感に、ことさらそのようなイメージを見るのは、見る側の勝手な思い込みに過ぎないとは言えるだろう。

しかしここで自分に感じられていることが、この私に流れる時間とスズカケノキに流れる時間が等価ではない、という予感だったしたらどうか。これは物理学的な時間のずれとは異なる、量と空間を下地とした計測に置き換えることのできない、ある質としての時間のずれを感じていることにはならないだろうか。

これは人間の寿命と木の寿命が違うとか、人間と違って木は何百年もの時間を…とか、そういう話でもない。もっと原理的なものだ。木も私も同じだと言った方がまだ近い。

木と私は、存在として別個である、なぜなら物質として別だからだ。私の脳は私の内側にあり、木は木の生を自身として生きている、という前提を崩さなければ、ベルクソンの言う世界には入っていけないのだと思うのだが、スズカケノキを見上げているときに、あるいはそのようなリアリティを掴みかけているような予感(錯覚)を、(何かから)与えられていないだろうかと思う。別に、ベルクソンの言うことを知る必要もないのだ。にもかかわらず、どうにも無視しがたい何かを、予兆のように感じている。ただの思い込み、錯覚だとしても、錯覚を感受するだけの、何らかの理由があるのではないかと。