分業

ここ数日間だけに過ぎないけど、ヴァイオリンとピアノだけの器楽曲とかを連続して聴いていて、そのあとふいにジャズとかを聴くと、ジャズ固有の機能性というか目的性みたいなものがはっきりと感じられる。つまり主にベースとドラムの担ってるもののことで、言うまでもないくらい当たり前だが、ジャズは大衆音楽でダンス・ミュージックなのだと、いまさらのように実感される。そうでなければこんな構造はありえないのだ。この定間隔で、音にならない潜在的なものとして、ずっと息づいてる抑揚の感じは、もし生まれてはじめてジャズを聴いた人ならば、これこそが異様で理解しがたいものに感じるだろう強い固有性をもって、それをジャズたらしめている。ドビュッシーをジャズのように、あるいはジャズへとつながる予兆のように聴こうとすることは、不可能ではないが不毛に思う。ジャズは生まれたばかりのときあくまでも呪われた子だったし、のちのロックン・ロールも同じだろう。最初は誰もが顔をしかめた。なんだその特定の目的だけを強調した浅はかな形式は、と思われた。それは確かにそうなのだし、今も変わりないのだ。音楽が分業制になったのはそれこそ百年以上前からなのだ。