ヴァイオリン・ソナタ

ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタの演奏を聴いた。それは収束と拡散を断続的にくりかえしながらもつれ合い響きあう二つの旋律なのだが、同時にそれがドビュッシーのヴァイオリン・ソナタと名付けられたある規範に対する挑戦というか試みでもあるようだった。

ステージに立つ二人の女性、ピアノに向かって座る人と、客席に斜め後ろ姿を向けるように立ってヴァイオリンを構える人。二人のあらわになった肩と腕と背中の白さが照明を反射している。それでもやはり人間の努力が、人間が努力をしているということが、そのまま狂気を連想させる。

そもそもヴァイオリンの音というのは異様なのだと思う。打楽器や鍵盤楽器や管楽器と違って、弦楽器は本質的に、非人間的で人間をいたわってくれる類の音ではないのだと思う。息継ぎがなくて、行為の始まりから終わりまでのけじめがなくて、良識や配慮や調整の意志を踏み越えて、けたたましく鳴り続けるような気配がある。そこに狂気を感じるのだと思う。

ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタが、その枠組みとして期待している内実は、おそらく弱くて長続きはしないが軽快ですばしっこいような、植え込みの隙間を縫うように飛ぶ二羽のメジロのような動作をもって、音の質感や旋律の流れではなく、粒立ち、粒度の変化、肌に当たる触感の変化を感じながら、物質的な音の背後にあるもの、潜在的にあるものをより強く前に出そうとして、伸縮の力をたえず変化させ、ある種のとりとめのなさを呼び込もうとするかのようなので、うずくまる個体の狂気がそのメジロのスピードに憧れ焦がれているような感じを受けもする。