紐帯

西川アサキ「魂と体、脳」を読んでいる。「支配的モナドの出現=実体的紐帯」という出来事を実際にシミュレーションしてみよう…というところ。十年前にも読んでるはずだけど、全然おぼえてない。そして、難しい。これは備忘のつもりで書いているけど、ところどころまだ分からなくて、もやもやする。

まず「窓がない」ほど引きこもったモナドの中に、「外」を持ち込む必要があった。そのために「紐帯」という概念が出てくる。

わけのわからない何か、アクシデント的な、または「欲望機械」と呼ばれるような、出来事が出来事の地を喰い始めるかのような事態を、秩序だったコード内に取り込んでしまう、その不整合をなかったことにしてしまう、そのような事例こそ、心身問題であるだろう。それだからこそ、自分は自分の死が気になるし、不安に駆られている。根本的な解決は与えられないから。

何かを感じ、流れを感じ、運動の傾向を感じることは、それが共可能性の範囲内であれば可能だ。それは「思い浮かぶ」。私のイメージ。私の感じたこと。私の好きな何か。

でも、それが出来なくなるとき、不調や失敗や限界を見たとき、いきなり青信号で止まったままになったとき、流れが継続しないときに、感じ方はあらためてそこに、元々の場所に入ることのできない限界=不加入性としての空間を確保する。

そのような違和、流れの遮断が起きて、モナドが抵抗にあうことを要請されるとき、身体(物質)が必要とされる。

「支配的モナド」は、要素に過ぎないのに、グループ全体を構成する。その奇妙な二重性が、結局のところ魂と身体の問題、つまり心身問題に帰着するであろうと考えられ、さらには永遠的対象、つまりそれこそが「死」の別名ではないかと。

実体的紐帯について言葉が費やされてはいるが、しかしもはやそこに内実は無いと言ってもよい。「それが難解さをかもしだす」。であるならば…。計算機によるシミュレーションは、にっちもさっちもいかなくなった考えの行き詰まりに対して「動くイラスト」を提供してくれるだろう。

計算機で「死」へ向かおう、「死」を突き詰めるための、計算をしよう…というところまで、読む。