我々は戦場にいる。上官が叫ぶ。ここにいる百人のうち、敵の陣地の先へ辿りつく者が、最低でも五人いれば良い。残り九十五人は戦死したとしても、五人が生き残れば、この作戦は成功である。
突撃する私が、その五名になるのか、残り九十五名なのか、これは予想できない。個々の能力の高低ではなくて、単なる偶然が、それを決める。私が突撃して目下の先へ進むその方向や、敵方の動きや、味方の動きが、さまざまに錯綜し、絡まり合って、結果的に生き残る五名とそうでない九十五名を決める。
このとき、突撃する百人のそれぞれの意識は、互いの進みゆく道、周囲の状況、降り注ぐ銃弾、その他さまざまな条件を、それぞれ感じ取りながら、身体のすべてに力を込めて全力疾走しながら、あと十分後か数十分後に、この感覚がまだ続いているかどうかを、じっと見守りつつ、自らの脚をもって地面を疾走する。
やがて百人それぞれの意識は、混然となる。私が生きていることと彼が死んでいることの境界線が見えなくなってくる。悪条件と好条件は、どちらが誰にとってのもので、どちらが私のものか、見分けがつかなくなる。危機をめぐってその傍らを駆け抜けているのが、私なのか彼なのかわからない。ただし、最低でも五人。そのことだけは確実に、信じるに足る何かとして、私や彼や、誰もの意識下に盤石なものとして存在する。
私や彼を含む百人は、ほとんどひとつの身体になって全力疾走しながら、いつのまにか全員が、生き残った五人となっている。私や彼や誰かが死んでいて、別の誰かは生き残っていたとしても、結果として、五人が生き残ったことは確実だと言える。作戦は成功したのだ。