まわり道

ザ・シネマメンバースで、ヴィム・ヴェンダース「まわり道」(1975年)を観る。素晴らしいのだが、何が素晴らしいのか説明できない、このダラダラと、ぽつぽつと話しながら、そこいらをほっつき歩いてるだけの、四人か五人くらいの男女。そんな登場人物たちの姿を見ていることの、どこが面白いのかいまいちわからないのだが、観ているだけで、映画の滋養がゆっくりと広がっていくかのようだ。

主人公の作家志望の男、偶然をきっかけに行動を共にすることになる女優、元ナチスの爺さん、大道芸で小銭を稼ぎつつ爺さんに連れ添ってる少女、ホテルで詩の朗読する彼らに惹かれて思わず一行に加わってしまう気弱そうな男、廃屋同然の古いお屋敷に住む主人、全員の佇まいがすばらしく、彼らをそれぞれ眺めているだけでいい。

彼らは仲間ではなく利害関係もない、むしろ物語のために無理やり集合させられた登場人物たちの感がある。他人が他人のまま、たまたま偶然に行動範囲が重ねっているかのようにさまよってる。お互いに距離や反目や人見知りの空気があるわけでもない。適度な無関心というか、適当な揺れ具合というか、良いも悪いもないような、単なる人と人との間に生じる隙間が、大きくなったり小さくなったり、そんな変化だけがある。

街をうろつきまわる彼ら。対話するときは隣り合い、そこから数メートル離れて一人いて、後方からは二人が並んでいて、さらにもう一人付いてくる。長い隊列が伸びたり縮んだりする。このとき、風景というものが異様な現実の生々しさをもって立ち上がってくるのを感じる。

映画として面白いということもそうだし、このような何かを捉えていること、それが「正しい」という感じがする。こういう「構え」が正しいのだという気がする。

作家志望の男は終始不遜な表情を浮かべている。母親から旅を促され、恋人に未練はなく、興味を向けた女優は自分に惹かれているようだが自分は今以上に心の動きがない。ただ、仕事を進めたい、書くべきものの手応えをほしい。

芸術家ってつくづく困った人だと思う。まったく非生産的でまったく役に立たずで、しかしこの世界でもっとも重要で価値ある偉大な仕事を為そうとする者の態度と表情で平然と生きている。本作の主人公もそのような人物だ。

ハープを咥えて時折ブルージーなフレーズをあたりに響かせる元ナチスの爺さんの、人懐っこいような味のある笑顔が素晴らしくて、そして人の表情の裏側の見えなさにもの悲しさがただよう。このような「年配者」の存在を、七十年代の映画にはまだ多く見かけることが出来たと、言って良いだろうか。

爺さんと主人公の男は、道中何度か話を交わす。政治と自然の分離について、文学について。取り留めのない、結論も無いような話が続く。彼のような人物が、あるいは彼とグルだった駅員のような人物が、元ナチスである身を隠しつつ今も生活している。主人公の男は静かに、態度は変えぬまま、しかししだいに爺さんへの殺意を募らせていくように見える。最後に舩上で爺さんを殺しかけるが、結局は彼が逃げるにまかせて、ナスターシャ・キンスキー演じる少女を彼の手元から引き離すまでのかたちは作った。

途中で立ち寄った廃屋同然の巨大な屋敷の主人と彼らの対話は、ほとんどが夢の話だった。まるで意味のない、結論も何もない夢の話を続けたい者がいて、睡魔に負ける者がいる。じつは主人は自殺する直前に、偶然屋敷に立ち寄った彼らを迎え入れたのだ。そして翌日ふたたび彼らが屋敷に戻ったとき、今度はすでに首を吊って息絶えていた。

老人は死ぬ、あるいは追い払われるのだ。そしてその後に何もない。詩の朗読に惹きつけられて道中を共にするオーストリア出身の彼も、屋敷の主人の自殺後、なぜか静かに袂を分かつ。彼らはそれぞれ、誰もが打ち解けることの出来ない人達の集まりだ。そしてそのことは、悲劇でもないし劇的なことでもない。ただ、たまたま偶然に出会った者同士が、ほっつき歩いて、知り合いの家に泊めてもらって、また車や電車で移動して、ほっつき歩いただけだ。

やがて主人公の男は、皆と別れて一人旅になる。偶然声を掛けられた二人組に撮影を頼まれて、苦笑しながら手持ちカメラを構える。ここに映画作家の自己言及を見ていいのか。