都会のアリス

ザ・シネマメンバースで、ヴィム・ヴェンダース都会のアリス」(1973年)を観る。ずいぶん昔に一度観ているはずだがほぼ記憶にない、と思って観始めたら、空に小さく飛行機が移動していて、路上の標識を示す冒頭の場面を見て、そのシーンをおぼえている、というよりも、この感じというか、このような映像がそこで担ったものというか、かつて自分がみたはずの、何十年も前からいくつもの表現の積み重なりとして示された何かが、目の前にふいに再来したような、その時間の厚みのようなものを感じて、軽い衝撃を受ける。ああ、そうだった、こういう感じだった、こういうことのはずだった…と、その感触を何度もたしかめる。

ポラロイドカメラを、僕もほしいと思っていた時期があった。今のようにデジカメやスマホもなかった時代で、撮影したらすぐに結果を確認できることへの期待があった。本作の主人公のごとく、ただ撮影して、それらを並べてみたかった。彼のように、決して満足にいたらないだろうというのは、なんとなく予想できたけれども、しかしそれをしてみたかった。そもそも、そういうことをしたいというのは、満足したいからではなくて、むしろ逆の思いを味わいたいためだ。そのためにそれを欲するのだ。

主演のリュディガー・フォーグラーは、本作においてはヴェンダースという人物自身を担ってそこに存在している。その強さは「まわり道」よりも明確な感じだ。この人物の表情と視線の先を、かつてこの映画を観た自分が、やはり何十年後の自分の今と同じように、その先を追いかけて見ていたな…というのは、ぼんやりとした記憶に残っている気がするのだ。まったく寄る辺なく、頼る先もなく、元恋人からも部屋にとどまることを拒まれ、たまたま出会った母娘の二人に同行する、なりゆきまかせの、その場次第の、主体性ゼロの、ふらふらと漂うばかりの人物で、でも彼は一応は文筆業の仕事を抱えていて、そのことでエージェントから色々文句も言われ、お金の前借りを断られたりもして、でもそのくらいの社会や経済との接点は、かろうじてあるのだ。絶望的に金がないけど、まだ社会との接点はあり、そして自分のやるべきことを自分で自覚している。何かは書かねばならない。写真を撮るのもそれに繋がっている。とにかく、何かは成さねばならない。その気概だけはある。落書きばかりして…などと九歳の少女に揶揄されるけど、そこだけはゆずれない。主人公は、そういう人だ。そのことが、当時の自分には眩しく見えた。ひさしぶりにこの映画を見てまず真っ先に思い出したのはそのことだ。